■音楽の美について、1月~3月のアナリーゼ講座■
09.1.1 中村洋子
★皆さま、明けましておめでとうございます。
ことしも、月に1回のペースで、
『バッハ・インヴェンション全曲アナリーゼ講座』に
取り組んでいきたいと、思います。
★昨年は、5番まで終了しました。
ちょうど、全体の3分の1です。
インヴェンションは、1番が長調、2番は短調、
3番は長調、4番が短調と、「長短」の組合せで、
構成されていますが、
5、6番だけは、唯一、「長調が2曲連続」しています。
★5番は変ホ長調、6番はホ長調。
変ホ長調は、調号の♭が三つ、ホ長調は、♯が四つ。
互いに、「遠隔調」の関係にあります。
それ以外の、1番、2番などは、ハ長調、ハ短調と、
同主調=近親調 の関係にあります。
遠隔調の5番、6番を連続して、演奏しますと、
6番に入った瞬間、そこでフッと世界が変わります。
★1月27日のアナリーゼ講座で、6番を取り上げますが、
新年の幕開け「Auftakt」にふさわしい曲、といえます。
5番 変ホ長調、6番 ホ長調は、半音違いの調ですが、
インヴェンション6番の1小節目の上声で、
「E、Dis、D」 と半音階が、現れてきます。
Disは、Esの異名同音ですから、
この5番から6番へと、連続して演奏しますと、
軽い驚き(半音上の調になっている)を、感じるはずです。
この「E、Dis 、D」 の三つの音の進行は、
バッハのユーモアすら漂ってくる、巧妙な曲の出だしです。
★バッハの作品では、こうした半音階は、
とても重要な位置を、占めております。
今回、講座で取り上げる予定の
「アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集」にも、
半音階進行に親しむための、可愛らしい舞曲が、入っています。
「メヌエット イ短調 BWV Anh.120」 と
「メヌエット ハ短調 BWV Anh.121」です。
★この2曲は作曲者不明ですが、イ短調のほうは、6小節目から、
4小節続く「 Gis, G, Fis, F」 の半音階進行、
ハ短調のほうは、4小節目から始まる
「H, B, A, As」 の半音階。
これらは、この半音階に付けられた和声がとても美しく、
すばらしい半音階の例、ということができます。
★私は、インヴェンションの楽譜に、昨年12月5日に物故された
加藤周一さんが、朝日新聞に連載された「夕陽妄語」の
≪「美」について≫(1995年、7月20日)というエッセイを
切り抜いて、挟んでいました。
★日付を見ますと、14年前の記事です。
その間、楽譜に挟んでいた、ということになります。
深い内容で、大意は次のようなものです。
★芸術作品を「美」と結びつけて考えるのは、長い習慣であるが、
「何を美しいとする」のは、その人により、時代により、また文化による。
1950年代のパリで、芸術家の半数は、レオナルド・ダ・ヴィンチを
「画聖レオナルド、その作品こそが絵画を定義する」とする。
しかし、残り半数は、「甘い通俗性の元祖、何の興味もない」。
★マルセル・デュシャン以後、前衛芸術家の多くは、
「美しい」という語を、「批判」として使う。
後期印象派まで、芸術的冒険は、美しくあり得たが、
今やその時代は終わった。
それでも「芸術」と「美」を、密接不可分なものとして語るのは、
アカデミズムの惰性に過ぎない。
★今日では、自然科学者が、「美」を十分に明瞭に語る。
例えば、古典熱力学では、理論やその体系の内的斉合性、または
構造のシンメトリーなどが、美的感動を呼び起こす。
要するに、芸術家は「美しさ」を憎悪し、
数学者は、「美しさ」に感動する。
これが、我々の住んでいる世界の現実。
★自然科学者でない我々は、どうすればよいか。
第一に、芸術と美を切り離したほうがいい。
シャルトルの建築は、当時、美しくある前に神の住居だった。
「ゲルニカ」は、美しくある前に、戦争の悲惨さ。
第二に、「美しさ」一般を定義する努力は、あきらめる。
定冠詞つきの「美」はない。
あるのは、複数のさまざまな美しいものだけ。
シャルトルの柱像から、北魏の仏像まで、
コンゴの面から能面まで。
文化的多元主義には、美的多元主義が伴わざるを得ない。
それが、我々の時代の条件である。
★ある初夏の日の午後、イル・ドゥ・フランスの麦畑のなかを
私は友人と、車を走らせていた。
久しぶりに訪れたサンリスの教会の、内陣の美しさは、
私の脳裏に残像のように、鮮やかに残っている。
窓外には、おだやかに起伏する麦畑と森が拡がり、他に人影なし。
友人の眼は涼しく、そのフランス語の響きは耳に快かった。
★突然、私のなかで、美しい人と、建築と自然が、一点に集まり、
分かち難く溶け合ったのは、その時である。
それは、忽ち来たり、忽ち去る、至福の瞬間であった。
★たしかに、「美の一般理論」は成り立ち難い。
しかし、たしかに、「美の経験」はある。
何がその経験の特徴だろうか。
おそらく、それは、異常に密度の高い一種の幸福感としか、
いい様のないものなのかもしれない。
(以上が大意です)
★バッハの音楽の美しさを、理論化することは、
極めて難しいでしょう。
しかし、たしかに、「バッハが美しい」という経験を、
私たちは、絶えず、繰り返し繰り返しもちます。
なにが、その美しさを弾く者、聴く者に、もたらしているのか、
アナリーゼ講座で、それを少しずつ、
解き明かしていきたい、と思います。
★ただし、それで、解き明かし尽くせるものでもなく、
加藤さんの結論「異常に密度の高い、一種の幸福感」が、
バッハの音楽の特徴、最も大きな「特徴」、
ということが出来るかもしれません。
★逆に、この「至福の瞬間」を感じ、体験した人のみが、
バッハを愛し、生きるうえでバッハを終生、必要とし、
そして、真の音楽そのものを、楽しむことができ、
愛し続けることが出来る、のかもしれません。
★第6回インヴェンション・アナリーゼ講座のご案内。
「インヴェンション6番、シンフォニア6番」
~アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集との関連
●1月27日(火)午前10時 ~ 12時30分、
●「会場」カワイ表参道・コンサート・サロン「パウゼ」。
第7回は、2月17日(火)「インヴェンションとシンフォニアの7番」
第8回は、3月24日(火)「インヴェンションとシンフォニアの8番」
★「特別アナリーゼ講座」
●3月7日(土)午後5時 ~ 7時30分、会場:パウゼ。
≪ドビュッシー「月の光」から「喜びの島」へ≫
★本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
写真は、万両の赤い実です、左の黄色い花は、蝋梅の蕾です、
ヒヨドリが、蕾をついばみ、地面に落とします。
蕾を載せた漆の豆皿は、山本隆博さんの作品です。
部屋中、蝋梅のうっとりする初春の香りに、包まれます。
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲
09.1.1 中村洋子
★皆さま、明けましておめでとうございます。
ことしも、月に1回のペースで、
『バッハ・インヴェンション全曲アナリーゼ講座』に
取り組んでいきたいと、思います。
★昨年は、5番まで終了しました。
ちょうど、全体の3分の1です。
インヴェンションは、1番が長調、2番は短調、
3番は長調、4番が短調と、「長短」の組合せで、
構成されていますが、
5、6番だけは、唯一、「長調が2曲連続」しています。
★5番は変ホ長調、6番はホ長調。
変ホ長調は、調号の♭が三つ、ホ長調は、♯が四つ。
互いに、「遠隔調」の関係にあります。
それ以外の、1番、2番などは、ハ長調、ハ短調と、
同主調=近親調 の関係にあります。
遠隔調の5番、6番を連続して、演奏しますと、
6番に入った瞬間、そこでフッと世界が変わります。
★1月27日のアナリーゼ講座で、6番を取り上げますが、
新年の幕開け「Auftakt」にふさわしい曲、といえます。
5番 変ホ長調、6番 ホ長調は、半音違いの調ですが、
インヴェンション6番の1小節目の上声で、
「E、Dis、D」 と半音階が、現れてきます。
Disは、Esの異名同音ですから、
この5番から6番へと、連続して演奏しますと、
軽い驚き(半音上の調になっている)を、感じるはずです。
この「E、Dis 、D」 の三つの音の進行は、
バッハのユーモアすら漂ってくる、巧妙な曲の出だしです。
★バッハの作品では、こうした半音階は、
とても重要な位置を、占めております。
今回、講座で取り上げる予定の
「アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集」にも、
半音階進行に親しむための、可愛らしい舞曲が、入っています。
「メヌエット イ短調 BWV Anh.120」 と
「メヌエット ハ短調 BWV Anh.121」です。
★この2曲は作曲者不明ですが、イ短調のほうは、6小節目から、
4小節続く「 Gis, G, Fis, F」 の半音階進行、
ハ短調のほうは、4小節目から始まる
「H, B, A, As」 の半音階。
これらは、この半音階に付けられた和声がとても美しく、
すばらしい半音階の例、ということができます。
★私は、インヴェンションの楽譜に、昨年12月5日に物故された
加藤周一さんが、朝日新聞に連載された「夕陽妄語」の
≪「美」について≫(1995年、7月20日)というエッセイを
切り抜いて、挟んでいました。
★日付を見ますと、14年前の記事です。
その間、楽譜に挟んでいた、ということになります。
深い内容で、大意は次のようなものです。
★芸術作品を「美」と結びつけて考えるのは、長い習慣であるが、
「何を美しいとする」のは、その人により、時代により、また文化による。
1950年代のパリで、芸術家の半数は、レオナルド・ダ・ヴィンチを
「画聖レオナルド、その作品こそが絵画を定義する」とする。
しかし、残り半数は、「甘い通俗性の元祖、何の興味もない」。
★マルセル・デュシャン以後、前衛芸術家の多くは、
「美しい」という語を、「批判」として使う。
後期印象派まで、芸術的冒険は、美しくあり得たが、
今やその時代は終わった。
それでも「芸術」と「美」を、密接不可分なものとして語るのは、
アカデミズムの惰性に過ぎない。
★今日では、自然科学者が、「美」を十分に明瞭に語る。
例えば、古典熱力学では、理論やその体系の内的斉合性、または
構造のシンメトリーなどが、美的感動を呼び起こす。
要するに、芸術家は「美しさ」を憎悪し、
数学者は、「美しさ」に感動する。
これが、我々の住んでいる世界の現実。
★自然科学者でない我々は、どうすればよいか。
第一に、芸術と美を切り離したほうがいい。
シャルトルの建築は、当時、美しくある前に神の住居だった。
「ゲルニカ」は、美しくある前に、戦争の悲惨さ。
第二に、「美しさ」一般を定義する努力は、あきらめる。
定冠詞つきの「美」はない。
あるのは、複数のさまざまな美しいものだけ。
シャルトルの柱像から、北魏の仏像まで、
コンゴの面から能面まで。
文化的多元主義には、美的多元主義が伴わざるを得ない。
それが、我々の時代の条件である。
★ある初夏の日の午後、イル・ドゥ・フランスの麦畑のなかを
私は友人と、車を走らせていた。
久しぶりに訪れたサンリスの教会の、内陣の美しさは、
私の脳裏に残像のように、鮮やかに残っている。
窓外には、おだやかに起伏する麦畑と森が拡がり、他に人影なし。
友人の眼は涼しく、そのフランス語の響きは耳に快かった。
★突然、私のなかで、美しい人と、建築と自然が、一点に集まり、
分かち難く溶け合ったのは、その時である。
それは、忽ち来たり、忽ち去る、至福の瞬間であった。
★たしかに、「美の一般理論」は成り立ち難い。
しかし、たしかに、「美の経験」はある。
何がその経験の特徴だろうか。
おそらく、それは、異常に密度の高い一種の幸福感としか、
いい様のないものなのかもしれない。
(以上が大意です)
★バッハの音楽の美しさを、理論化することは、
極めて難しいでしょう。
しかし、たしかに、「バッハが美しい」という経験を、
私たちは、絶えず、繰り返し繰り返しもちます。
なにが、その美しさを弾く者、聴く者に、もたらしているのか、
アナリーゼ講座で、それを少しずつ、
解き明かしていきたい、と思います。
★ただし、それで、解き明かし尽くせるものでもなく、
加藤さんの結論「異常に密度の高い、一種の幸福感」が、
バッハの音楽の特徴、最も大きな「特徴」、
ということが出来るかもしれません。
★逆に、この「至福の瞬間」を感じ、体験した人のみが、
バッハを愛し、生きるうえでバッハを終生、必要とし、
そして、真の音楽そのものを、楽しむことができ、
愛し続けることが出来る、のかもしれません。
★第6回インヴェンション・アナリーゼ講座のご案内。
「インヴェンション6番、シンフォニア6番」
~アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集との関連
●1月27日(火)午前10時 ~ 12時30分、
●「会場」カワイ表参道・コンサート・サロン「パウゼ」。
第7回は、2月17日(火)「インヴェンションとシンフォニアの7番」
第8回は、3月24日(火)「インヴェンションとシンフォニアの8番」
★「特別アナリーゼ講座」
●3月7日(土)午後5時 ~ 7時30分、会場:パウゼ。
≪ドビュッシー「月の光」から「喜びの島」へ≫
★本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
写真は、万両の赤い実です、左の黄色い花は、蝋梅の蕾です、
ヒヨドリが、蕾をついばみ、地面に落とします。
蕾を載せた漆の豆皿は、山本隆博さんの作品です。
部屋中、蝋梅のうっとりする初春の香りに、包まれます。
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲