いい本を読み終えると、ふつう、感動する。
「感動」とは便利な言葉だ。
「いやぁ、サイコーに感動しました」
「もう感動、感動の連続でしたね~」
「感動で胸がいっぱいになりました」
などなど。
でも、あまり感動ばかり連発してたら、あかんど~。
…な~んちゃって。
と、ダシャレを言っているような場合ではない厳粛で深刻な一冊の本を読んだ。
先日のブログ 「初めての東野圭吾」にコメントをくださった見知らぬ方が、
東野圭吾の「手紙」を、次のような簡潔な文章で勧めてくださった。
「これもとても考えさせられる良い作品です。他の東野ミステリとは毛色の違う
ヒューマンな人間ドラマですが、印象に残る言葉がたくさんあり一読の価値ありです」
僕はさっそく「手紙」の文庫本を買い求め、その小説に没頭した。
かなり以前に、映画の「手紙」は見ていた。
テレビドラマの「白夜行」で主演をした山田孝之が、ここでも主人公だった。
それこそ「感動」の涙を流さずにはいられない、心が熱くなる映画だった。
しかし、今回原作を読み、映画は原作とかなり違っていることを知った。
筋書きだけ追えば映画とほぼ変わらないのだが、受ける印象がまったく違う。
映画は原作を元にして独自に仕上げられているのだから、当然だけど、
映画と小説はそもそも別ものであるということを、改めて知らされたのである。
いまさらストーリーの解説でもないが、書かなければ後が続かないので書きます(笑)。
ちょっと長いですけど…。
ご承知のように、これは両親のいない兄と弟の物語である。
…というか、大半は弟のほうの物語なんだけれども。
勉強好きな高校生の弟を大学に進学させたい一心で、兄はある裕福な家に空き巣に入る。
仏壇から分厚い1万円札の束の入った封筒を見つけ、ポケットに入れた彼は、
それだけでさっさと逃げればよかったのに、台所で天津甘栗を見つけ、
弟の大好物だったことを思い出し、「いいお土産になる」とポケットに入れる。
グズグズしているうちに、別の部屋で寝ていた老婆が起きて、ふすまを開ける。
警察へ電話しようとする老婆ともみ合い、持っていたドライバーで彼女の喉を刺す。
そして、強盗殺人、という途方もない重罪を背負って、兄は刑に服するのである。
以後、弟は「強盗殺人を犯した男の弟」というレッテルを貼られる。
ここから、この小説は弟の直貴(なおき)に次々起こる辛い出来事に密着する。
アルバイト先で、「そのこと」がわかると辞めさせられる。
次にアルバイトをしたエスニック料理店には人の良い店長がいたけれど、
兄が人を殺して服役中であることを知ると、「辞めろ」とは言わないものの、
それとなく重い雰囲気になり、やがて周囲の皆が知って、変な雰囲気になる。
仕方なく、そこも辞めざるを得なくなる。
大人とは不思議な生き物だ。
ある時は差別なんかいけないといい、ある時は巧妙に差別を推奨する。
直貴はそれを痛感する。
大学の通信教育のスクーリングで出会ったミュージシャンの寺尾から仲間入りを勧められ、
直貴はバンドのボーカルとしてライブの舞台に立ち、初めて生きる喜びに浸る。
寺尾は、直貴を誘ってカラオケに行ったとき、
ジョン・レノンの「イマジン」を歌った直貴の非凡さを見抜いたのだ。
この「イマジン」も、本作のキーワードのひとつである。
観衆たちは直貴の美声に拍手を送り、バンドはやがてプロダクションの勧誘を受ける。
しかしプロダクションの身上調査で兄のことが発覚し、直貴はメンバーから外される。
何で兄貴のために俺がこんな目に、と直貴は兄を恨み、絶望の渕に沈む。
やがて、通信教育から昼の大学へ通うようになった直貴に最も大きな転機が訪れる。
資産家の令嬢である朝美と知り合い、朝美は積極的に直貴を愛するようになる。
兄のことをどうしても打ち明けられないまま、直貴は朝美と愛を交し合う。
そして、朝美に請われるまま、彼女の両親に会うことになる。
「(家柄が)釣り合わないんだよ」と、朝美の両親や親戚が、直貴を疎んじる。
そこへ兄のことが発覚し、これが致命的になったことは言うまでもない。
朝美は「兄さんは兄さん、あなたはあなたでしょ。でも、なんで隠していたの?」
その問いに、直貴はうまく答えられない。もう、何がどうなってもいいと思う。
「あたしは親と絶縁して家を出るわ」と言い放つ朝美に、顔を曇らせる直貴。
「どうしたの? あたしがあの家から離れたら、あたしには関心がなくなるの?」
「まあ、そういうこと」
と、自暴自棄になった直貴は、そう言ってしまい、すべてが終わる。
そんな時にも、獄中の兄からせっせと毎月手紙が来る。
「お袋と食べたあのときのレンコン、おいしかったね」
などと書いてくる兄の手紙を見て、
「何を呑気なことを言ってやがる。こっちの苦労も知らないで」
と、兄への憎悪感がいよいよ膨れ上がってくる。
兄は厚い壁に守られている。しかし、こっちは…
毎日のように世間の厳しい風にさらされ、次々と人生を踏みにじられていくのだ。
直貴は兄の手紙を破り捨て、住所を移り、一切の連絡を絶つ。
そんな直貴の事情を知りながら、純粋に接してくれる由美子という女性がいた。
彼女は、刑務所にいる兄に、直貴になりすましてワープロで手紙を書いていた。
直貴は新たに電気店に就職し、ようやく人並みの生活を送り始めた。
しかしそれも、ある事件がもとで、兄のことが明るみに出て、左遷される。
これでもか、というほどに、直貴の行く道は差別と偏見に満ち溢れていた。
直貴のあまりにも過酷な境遇に、読んでいるうち、暗澹たる気持になってくる。
読めば読むほど、辛くなり、時々本を閉じて、ためいきを漏らす。
直貴が人並みの幸せをつかみかけていくシーンでも、読んでいるほうは、
このあと、必ず兄のことが原因で、奈落の底に突き落とされる…
それが百パーセント予測できるので、その展開が喜べない。
常に、絶望的な気持ちでこの本と向き合っていかなければならない。
小説の終わりの方で、直貴は由美子と結婚し、子どもができる。
しかし、その子どもも、まわりから後ろ指をさされ、差別されるのだ。
そんな救いようのない物語に、僕たちはひとつのヒントを与えられる。
電気店の職場を左遷されたとき、そこへ社長がやってきたのである。
映画でも、このシーンは話題になっていたが、社長は直貴に、
「会社にとって重要なのは、その人物の人間性ではなく社会性なんだ」と言う。
そして、「差別は当然なんだよ」と付け加える。
「犯罪者やそれに近い人間を排除するというのは、しごくまっとうな行為なんだ」
「君がいま受けている苦難もひっくるめて、君の兄さんが犯した罪の刑なんだ」
直貴は思う。
自分の現在の苦境は、兄が犯した罪に対する刑の一部なのだ。
犯罪者は自分の家族も社会性をも殺す覚悟を持たねばならない。
そのことを示すためにも差別は必要なのだ。
これまで自分が白い目で見られるのは、
周りの人間が未熟なせいだと決めてかかっていた。
これは理不尽なことなのだと運命を呪い続けていた。
それは甘えだったかもしれない。
差別はなくならない。問題はそこからなのだ。
そこからの努力を自分はしてきただろうかと考え、直貴は心の中で首を振った。
いつも自分は諦めてきた。諦め、悲劇の主人公を気取っていただけだ。
このくだりは、何とも重い。
小説のラストは…
バンド仲間だった寺尾からもう一度歌わないかと誘われ、
2人で、千葉の刑務所へ慰問コンサートに行くことになった。
そこには、直貴の兄が服役していた。
寺尾と2人で舞台に立った直貴は、後ろの方で合掌している兄を見つけた。
直貴はマイクの前で立ち尽くし、曲が始まっても、声が出なかった。
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読みながら、沈没していく船のように、どんどん気持ちが沈んでいく…
と言っていいかもしれない。
差別はいけないことだ、と考えている僕たちではあるが、
本当に、心の底からそう思っているのか…?
と、この作品に問いかけられているようである。
読後、一口で「感動した」とは言えない重いものが残った。
結局あらすじだけの紹介に終わってしまったけれど、
この本に関する感想は、簡単に書き表せないということを、
いま、この文章を綴りながら徐々に感じて始めている。
もう少し、自分の中で熟成させてから、またここに書こうと思う。
きょうはこれで筆を置きます。
コメント欄でこの小説をお勧めくださった方に、心からお礼を申し上げます。
アナザービートルさんの世界ですね。
私はシリトーの 長距離ランナーの孤独 を再読していました。次のブログでアップできるかも知れません。
のんさんも頑張って読んで下さい。