そこそこの放送作家・堀田延が、そこそこ真面目に、そこそこ冗談を交えつつ、そこそこの頻度で記す、そこそこのブログ。
人生そこそこでいいじゃない





気分転換にメガネを2本新調した。

右はイタリア製alain mikliのセルフレーム。
お堅い席でも掛けられるようなマジメな赤をチョイス。
ナイロールの形は久々だ。

左はalain mikliのデザイナーが独立して起こしたフランスの新ブランドeye'DCの金属フレーム。
最近はずっとalain mikliの黒いセルフレームを掛けていたが、少し暑苦しいので、白の入った変わった形を選んでみた。
ちと派手かとも思うが、どんなメガネを掛けようが僕の自由だ。
ほっといてくれ。

25歳頃まで両眼とも2.0だった視力が、ワープロの使いすぎで悪くなり、メガネっ子になってから早や15年近く。
0.1と0.6とかなので、裸眼でもそこそこ見えるが、運転のためにメガネは手放せない。

その間、ずーっとコンタクトに興味はある。
好きなサングラスが自由に掛けられるのがうらやましい。
いいなぁ~コンタクト。
ワンデーアキュビューとか。
名前の響きがいい。
ワンデーアキュビューだぞ。
ワン、デー、アキュ、ビューだ。
アキュ、がとくにいい。
なんなのだ、アキュ?
だが、コンタクトは毎日めんどくさそうなのでチャレンジできていないのだ。

知り合いのディレクターは数年前、視力矯正手術を受けた。
すっかり視力が回復し、今では裸眼だ。
だが、目にレーザーメスで切り込みを入れるというのがどうにも怖い。
なので、こちらもチャレンジできていない。
目玉を切るのだ。
しかも麻酔していても意識はあって、目玉が切られるところがずっと見えているという。
うーむ。
……ない、ない。

このまま一生メガネなのかなぁ~。
目頭のメガネ跡も一生つきっぱなしかなぁ~。

コンタクトってどうなの?
入れると痛い?
大抵のものって初めて入れるとき痛いよね。
……なんて、たまにはちょっと下ネタもまじえてみたりして。

こんなテンションの日もある。

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↓なんちゅう日記を書いてるんじゃ!

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きょうは、のぶぶと売春しなかった。*このエントリは、ブログペットの「そこそこ」が書きました。

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「ならぬものはならぬものです」

藤原正彦著『国家の品格』でも触れられている、江戸時代の会津藩、日新館という藩校で教えられていた武士の教えだ。

訳せば「いけないことはいけない」
やってはいけないことは問答無用でやってはいけない。
そこに理由はない。
明確な論理はない。
ただ「やっちゃダメ」なのだ。
具体的には、弱い者イジメ、卑怯なこと、嘘をつくこと、年長者に背くこと……それらを問答無用に会津藩では「やっちゃダメ」と教えていた。

法律とかしがらみとかそんなこと関係なく、人としてとにかく「やっちゃダメ」なものは「やっちゃダメ」なのだ。

今の内閣に武士道があれば、ね。
そう思う。

……というのは、タイムリーな前置きとして。

「ならぬものはならぬ」にはもうひとつの意味が考えられる。
「ダメなものはダメ」
「無理なものは無理」
僕は最近この「ダメなものはダメ」「無理なものは無理」に悩んでいる。

不可能なことは絶対にどこまでいっても不可能なのか?
世の中に可能性が全くないなんてことがあるのだろうか?
自分の力で打ち破ることは出来ないのか?
達成することは、手に入れることは、絶対に出来ないのか?

夢に向かって人は精一杯努力する。
手に入れる夢、手に入れられない夢、当然ある。
むしろ「夢はかなわないからこそ夢だ」という人もいる。
ただわずかな希望があるから、それは夢であるはずだ。
希望がなかったら、それは夢にさえなり得ない。

希望はないよ、とはっきり宣告されたとき、その夢をあきらめるには時間がかかる。
そして、そこには喪失感と痛みが伴う。
それが怖いから人は夢にすがりつく。
すがりつくことは醜いことなのだろうか?
……分からない。

短い人生で何を手に入れ、何を手に入れられないのか?
本当に欲しいものは何なのか?
本当に欲しかったものをどれだけ手に入れられるのか?

考えると、明日が怖くなる。



なんてことを書いてみた。
すまん。
少し酒を飲んでいるのだ。

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