そこそこの放送作家・堀田 延が、そこそこ真面目に、そこそこ冗談を交えつつ、そこそこの頻度で記す、そこそこの映画のブログ。
人生そこそこでいいじゃない





大ヒットしてるというので観てきました。
新海誠監督のアニメ映画「君の名は。」
「シン・ゴジラ」を抜きそうな勢いですって。
興収60億を狙えるペースですって。
で、確かに映画館は平日昼間なのに満員でしたっす。
レディースデイとは言え、スゲーっすよ。
その感想。

ゴメンナサイ。
若者の皆さん、ホントにゴメンナサイ。
僕はこの映画が全く駄目でした。
48歳のおじさんには無理でした。
星2つ。★★
映像はきれいです。
ただ、無理でした。
むしろ、スッパリ言うなら、この作風が嫌いです。
要するに子供だましの映画だと感じました。

若者たちはこの映画が好きなんだね〜。
「人生で観た映画の中でいちばん良かった」とかいう「お前は岩崎恭子か!」ってつぶやきもTwitter上に何人も見かけたよ。
ふむふむ、若者たちはそんなにこれに感動しているんだなぁ〜。
そーですか、はいはい、そーですか〜。
映画が終わった瞬間、隣のカップルが「あ〜面白かったねぇ」とか言うので「お前らマジか?」って心底思ったよオジサンは。
見たら20歳ぐらいの初々しいカップルですよ。
良かった良かった、そう思えるならそれでいいじゃん。
ね?
だよね?

以下、ネタバレで文句を言います。







脚本、雰囲気過ぎないか?
実はいちばん大事なところを全く描写せず、説明もせず、雰囲気脚本で逃げている。
逃げまくっていると言ってもいい。
雰囲気オシャレ脚本映画。
映画経験の少ない若くてうぶな観客がいちばんダマされるパターンかも。
辻褄なんてことごとく合ってない(たとえファンタジーだとしても合ってなさ過ぎると個人的に感じる)。
普通知らない他人の身体に入るような特殊な経験したら、それが「誰で」「ここはどこで」「今はいつの時代か」を最初にチェックするはずなのになぜか二人ともそこだけは触れないで進むし、都合のいいタイミングで名前を忘れ、それ以外は忘れず、そもそもの物語の大筋の理屈すら説明しない。
少なくとも「そもそもなぜあの2人が入れ替わるのか?(何千万人も人はいるのになぜあの2人か?)」は最低限説明しないとかな。
それになんで3年ずれてんの?とか、なんで身体入れ替わったのにそこがどこで自分誰でいつの時代なのか調べないとのか、なんで一番急を要する街の存亡がかかった大事な瞬間にお互いイチャイチャした挙げ句手のひらに「スキダ」とか書いちゃって、それ見ずに進むの?とか、最後電車で再会したのに、駅から出て、よくあんなひと気のない階段まで2人して捜しに行ったな、とか(笑)、なに急に出生から両親の離婚まで他人の回想を脳内にぶっ込んできてんのよとか(都合よすぎ)、いろいろツッコミどころが多すぎて、ずーーーーーっと冷めた目で見ていたよ。
そもそも名前とか連絡先なんか、ノートに書いとけば良かったのに、ノートにはそういう重要事項書かずにスマホにだけ入れてて、よく分かんないけどそのスマホのデータは、都合良く消えたりして(笑)。
2人の時間は3年ずれてるってことは、電車の中で会ったとき三葉は高3でタキは中3のはずなのにその年齢差に気がつかない本人たちと観客たち(と気付いているのに無視する製作者たち)、たった3年前電車で出会った奇妙な少女のことを身体が入れ替わったのにすっかり忘れている少年(覚えとるわ普通!笑)、三葉にもらったヒモをなぜか手首に巻いているタキなのに、そのタキの身体に入った三葉はその手首のヒモに都合良く気付かない不自然さ、などなど、細かいところが破綻しすぎ!
もう、はっきりいうと無茶苦茶ですよ、筋書きが。
つまり、雰囲気オシャレに過ぎないんだよ、全てが。
ダマされちゃあいかん。
第一、あそこまで歴史が大きく変わるなら、映画なんだから、変わる瞬間のカタルシスを描く努力をしないと、さ。
僕がいちばん観たかったのは「どんな言葉で三葉が父を説き伏せて町民を避難させたのか」だった。
なのに、そのセリフがない。
これって逃げだと思う。
雰囲気で誤魔化している。
その上で、町民みんなで高校のグラウンドに逃げて、そこへ隕石がドーンときて、「助かったぁぁぁぁぁ」っていうカタルシスの瞬間を描けばいいのに、というか描くだろ普通観客みんなそれ期待してんだから……なのに描かない。
バイト先の先輩・奥寺さん(長澤まさみの声・サイコー笑)が、実は中身が女になっているタキくんのことを好きになる。
だが、映画ではその「好きになった瞬間」を描いていない。
だから唐突に奥寺さんが「実は好きだったんだよね」とか言っても「は?なに言ってんの?」としか思えない。
その決定的瞬間をなぜ描かないのか?
あんな刺繍1つで好きになるわけなかろう。
そのあといろいろあった、そこに決定的な好きになるための何かがあったはずなのに、描かない。
たぶん思いつかなかったか、勝負するのが恐かったか、とにかく描写はするのはやめて観客の想像の補完に任すという逃げの脚本を選択したのだろう。
もう全編通して、そういった「雰囲気で逃げてる脚本」を感じてイライラした。
雰囲気で逃げてるところに、いちいち腹が立って、ぜんぜんこの物語に乗れなかった。
いちばんいいところの直前で、いつも違うタイムラインに移動するか、いらん恋愛要素にズラされる。
なんだこの肩透かし構成。
随所に入ってくるオシャレバンドのいかにもオシャレな青春ソングみたいなものも、核心を描かずに雰囲気でフワァ〜と逃げようとしている誤魔化しの手段にしか感じられない。
上手に、上手に、若者たちをダマして成立させた映画だなぁ〜と思ったよ。

そもそも「転校生」だし「グランド・ツアー」(古いB級アメリカ映画。隕石が町に落ちてくるのでタイムワープして救う話)だし、僕は見始めて5分ぐらいで「まさかこういう話じゃないだろうな」と思ったら、まんまそうだったしね。
それに全体に漂うなんとも言えないオタク臭。
厨二病ってこういうのをいうんだろうね。
正直言って、気持ち悪い。
作風がなんか苦手。

「サマーウォーズ」を作った細田守には遠く及ばないなぁ。
中身の説得力が全然違う。
絵のタッチは似てるんだけどね。

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もうこれを見たら昔の怪獣映画、全部観てらんないよね。
「海猿」とかも見てらんないよね。
ハリウッドの映画でも「インディペンデンス・デイ」とか、もう観てらんないよね。
いわゆるディザースタームービーの過去作は全て「シン・ゴジラ」の前に退屈でかったるい愚作になり果てた。

葛藤や成長、喪失の補完など、今まで当たり前のように盛り込んできた「ドラマツルギー」の完全排除。
登場人物の背景を過度に盛り込みそこにドラマ性を描いてきた邦画界の慣習の排除。
死の直接描写の排除に代表される、作劇の都合の排除。
個の内面を描かない、あくまで客観的に起こっている事象、人々の姿だけを描くクールな作劇。
これらによってもたらされたスピード感とリアリズム。
なのにこの大ヒット。
もう前には戻れない。

そーいうことだよ。
まさに革命。

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「朝まで生テレビ」で天皇陛下の生前退位のご意志をどうすべきかという問題をやっていた。

国民の9割は生前退位に賛成らしい。
だが僕は陛下の生前退位には断固反対する。

陛下がご自身の高齢による体力低下のため、今までのようなご公務を行うことが出来ない近い未来の状態を危惧し、国民に向けて生前退位のご意志をお示しになったことは、もちろん重く受け止めている。
だが、僕は陛下には天皇の地位に就いたまま、摂政を設け、摂政に公務を任せることによってご負担を減らし、長くこの先も天皇でいらして頂きたい。

それはなぜか?
僕は天皇という地位は(象徴という戦後付与された意味に於いても)、どこまでもとことん神聖なものでないといけないと思うからだ。
高齢になったら法律に則り生前退位できてしまう……そんな現代的なシステムを天皇制に取り込んでしまうと、天皇という存在自体の「神性」が損なわれると危惧する。
生前退位の法律を整えること、イコール、今の国民が持っている「天皇に対する神性」を損なうと思う(それこそ無意識のレベルで)。
陛下は日本人にとってやはり「神格化」された存在であり、法律などという人が作ったシステムによって簡単にその地位を与えられり、失ったりしてはいけないのではないか。
前天皇の崩御によって新たな天皇は即位し、そしてその天皇は崩御によってのみ天皇ではなくなる。
この誰にもどうにも出来ない生命の神秘に則ったシステムこそが、天皇陛下の神性の根本であり、我々日本人が天皇に「神」を見る根本だと思うのだ。

陛下は「公務をこなして、国民に寄り添うことで、象徴天皇の務めを果たしてきた」と自負しておられる。
それについては100%同意するし、陛下の国民に対するお気持ちを思うと涙が出る。
だが、陛下が例え高齢が原因で今までのようなハードな公務ができなくなったとしても、我々国民は陛下のことを「仕事してないな」なんて誰1人思わない。
陛下がどんな状態であれ、「いて下さる」ことで平成の世が続いている、そして公務など一切しなかったとしても「いて下さる」ことで我々国民は十分だ、これが現実だと思う。
だから、陛下には申し訳ないが、生きていらっしゃる限り「平成」の世は続き、陛下がもし崩御されたときにだけ「平成」の世が終わるという、人為的なシステムではない神のみぞ知る「神聖な」仕組みによる日本の歴史の積み方がこそが、もっとも国民にとってしっくりくる方法でありまた、象徴天皇制の根本を支える「神性」を担保する条件ではないかと信じるのだ。

ご公務は摂政に任せれば良い。
陛下は皇居の中心で静かに国の平和を祈って下さっていれば、国民は誰1人文句など言わないと思うのだ。

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S.H.フィギュアーツ フレディ・マーキュリー 約140mm PVC&ABS製 塗装済み可動フィギュア
クリエーター情報なし
バンダイ


フィギュアのフレディー。
最高だ。
こんな商品を売り出してくれたバンダイは天才。
僕の家のフレディーはとりあえず今のところ、スタンドマイクを持った熱唱姿でリビングに鎮座させた。

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平成ガメラ4Kデジタル復元版 Blu-ray BOX
クリエーター情報なし
KADOKAWA / 角川書店


「シン・ゴジラ」はこの「平成ガメラシリーズ」を継承しているというネット民の指摘を信じ、Blu-rayを入手して少し観てみた。
その感想を述べる。

ひとことで言おう。
観てらんないw。
猛烈にかったるい。
すぐに観るのをやめた。
三部作少しずつ観てみてみたが、観てらんない。
中山忍がカワイイ感だけはあるのだが、それでも観てらんない。
仕方ない、正直な感想なのだから。

分かった。
僕は着ぐるみ怪獣ものがそもそもダメなのだ。
いかにも人が入ってますよ感満載の怪獣や、ピアノ線で釣ってる感満載の飛行機とかヘリとか、そもそも無理なのだ。
だから「スター・ウォーズ」ファンなのだ。
ハリウッドの特撮に魅せられたのだ。
故に、今回初めて中に人が入ってます感がなくなったCGゴジラの「シン・ゴジラ」にはまった。
もちろん、映画としての完成度の高さもあいまってだ。

平成ガメラ。
ぜんぜんネット民の噂ほどではなかった。
ひとことで言えばガッカリ。
「シン・ゴジラ」を観てしまったあとではもう、怪獣映画はあそこに後戻りできないのだろう。

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ゴジラ(昭和29年度作品)【60周年記念版】 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
東宝


「シン・ゴジラ」を、「10年に一度の傑作」「50年に一度の傑作」とまで言い切り、死ぬほど推している身として、1954年の初代「ゴジラ」について一度きちんと語っておかなければならないだろう。

1954年に公開されたいわゆる最初の「ゴジラ」。
白黒で、4:3画角の作品だ。
当然DVDも持っているし、何度も観ている。
「シン・ゴジラ」を観たあとにも、もちろんもう一度観返した。
だが、観るたびにこう思う。
正直な感想だ。
なんだこりゃ、と。
そう思ってしまうのだから仕方ない。

初代「ゴジラ」は、ゴジラ(という概念)を生み出したという点に於いて大いに評価すべき映画である。
終戦からわずか9年、原爆の記憶や東京大空襲の記憶など、当時の日本人の生々しい文脈上にゴジラという災厄を映像化した点も素晴らしいと思う。
当時、「ゴジラ」を映画館で観た日本人たちの驚愕ぶりは(ある程度)理解できる。
だが、いかんせん1本の映画としては欠点が多すぎる。
中途半端に描いた人間ドラマが、ぜんぜんピンと来ないのだ。
わけの分からない浅ーい人間ドラマ(三角関係)が、全くもって必要ない。
その部分が興ざめもいいところ。
ゴジラが東京に上陸し、町を破壊し、鉄塔に登って生中継しているテレビクルーを鉄塔ごとなぎ倒す場面とかはもう最高。
しかし、ヒロインとその恋人と芹沢博士(あの有名なオキシジェンデストロイヤーの発明者)の三角関係が、あまりに酷くて苦笑もの。
おそらく、初代「ゴジラ」を作ったクリエイターは、ただひたすら怪獣映画を作りたかったんだろうと思う。
根本的に興味が怪獣にしかないから、付け焼き刃のように描いた人間ドラマの部分が、酷い出来なのだ。
だったら、今回の「シン・ゴジラ」みたいに人間ドラマなんか描かなければ良かったのに。

安い男女の三角関係を始めとするよく分からない人間ドラマ。
そんな初代「ゴジラ」の弱点を、今回の「シン・ゴジラ」は見事に排除し、極上の怪獣映画に仕上げている。
やはり庵野秀明というクリエイターの凄さを感じずにはいられない。

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激動の昭和史 沖縄決戦
クリエーター情報なし
メーカー情報なし


岡本喜八監督の「激動の昭和史 沖縄決戦」を鑑賞。
その感想。

そりゃ負けるよね。
このひとことに尽きる。
悲惨な沖縄玉砕戦の全貌が描かれるが、そもそも勝てる気がしない状況でも戦争をやめられなかったあんな阿呆な状況は、今後二度とないだろう。
決定的な戦争に突入する前に、外交的な解決が図られるだろうし、国民が黙っていないだろう(それ以前に核兵器をどこかが使ってしまったら全て終わりだが)。

星は3つ。★★★
「日本のいちばん長い日」ほどの名作感はない。

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ゆきゆきて、神軍 [DVD]
原一男
GENEON ENTERTAINMENT,INC(PLC)(D)


原一男監督が「シン・ゴジラ」に出演している(生物学者役・笑)。
その流れで「ゆきゆきて、神軍」を鑑賞。
その感想。

前にも一度観ているのだが、このドキュメンタリーのなんというか衝撃というか異常性は際立っていて、今回も非常に気分が悪くなった。
ここであぶり出される戦争中の事実は、気分は悪いのだが、日本人が過去に実際に行ったことであり、その事実からは永久に逃れることは出来ない。
このドキュメンタリー映画の主役である奥崎謙三も、先の大戦によって産み落とされた日本の申し子の1人であることに間違いはない。
ゆえに彼の行動ひとつひとつがいかに狂気じみていたとしても、それも突き詰めれば国のせいである。
奥崎の手で追い詰められていき、戦時中の人肉食の事実を告白する元軍人の老人たち。
彼らの罪も、突き詰めれば国のせいである。

戦時中、もしくは終戦後の混乱の中、南方戦線の日本軍の一部が行った人肉食。
フィリピンなどを中心に、現地人を殺し、食い、強姦し、食い、といった史実に疑う余地はない。
捕虜となった米国人を食い、台湾人を食い、同胞の日本人ですら殺して食い、といった史実も疑う余地はない。
食わなければ餓死するという極限状態だったとはいえ、許される行為とは言い難いだろう。
同じように、未だに韓国との間でもめている慰安婦の問題も、強制連行20万人という数字に疑念はあったとしても、実際に少なくない韓国人女性がつらい目に遭ったことは歴とした史実である。
そしてまた同じように、30万人虐殺という数字に疑念はあったとしても、ある程度の無差別虐殺を南京で日本軍が行ったことも史実であろう。

「シン・ゴジラ」を観て、日本頑張れ!日本はまだやれる!日本に誇りを持った!と感動するのは至極正しい反応だと思う。
世界で唯一の被爆国であり、3.11を経験した日本だからだ。
だが、決してただの被害者ではない。
同時に、昔は加害者だったのだ。
過去にとんでもない負の遺産を背負っているのだ。
だからこそ、もう2度と加害者の側にならないよう、「シン・ゴジラ」に熱狂する若者たちが未来の日本を正しい形に作っていかなければならない。

忘れるのは簡単だ。
痛みを抱えたまま生きていくのはつらいから。
だが、忘れていい痛みといけない痛みがある。

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日本のいちばん長い日 [東宝DVD名作セレクション]
岡本喜八
東宝


「シン・ゴジラ」関連作品のラスト。
その感想。

素晴らしい。
星4つ。★★★★
1967年の作品。
僕が生まれる前の映画だ。
この年代の邦画に関しては、黒澤明と小津安二郎ぐらいしか観てなかった。
なるほど、岡本喜八かぁ。
あと何本か岡本喜八監督の作品を観ないといけないかも知れない。
そのぐらい素晴らしい映画だった。
この岡本喜八監督は「シン・ゴジラ」に写真とはいえ出演した人物だし、「シン・ゴジラ」の特徴であるテロップ多用はこの「日本のいちばん長い日」が元ネタだとも言われている。
2時間半ある映画だけど、全くダレるところもなく、最後まで観られた。

終戦の日の24時間を描いた映画。
正直知らないこともいろいろあった。
大東亜戦争最後の1日に当事者たちがどんな思いでいたのか。
思いを馳せると感慨深い。

あと約一週間で71年目の終戦記念日か。
日本のためにその命を捧げた300万の英霊に合掌。

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僕的には、10年に一度の傑作、いやある意味(怪獣ゴジラの映画を1作目以来初めてちゃんと成立させたという意味で)50年に一度の傑作だとすら思っている。
日本映画史に残る傑作である。
初代「ゴジラ(1954年)」や「七人の侍」「東京物語」「犬神家の一族」に匹敵する名作。
そう信じる理屈を以下に雑文で述べていく。
少なくとも僕が、庵野秀明監督(とこの「シン・ゴジラ」という映画を完成させた製作者たち)にとんでもないジェラシーを感じているということは理解して欲しい。
この「シン・ゴジラ」を観てジェラシーを感じないクリエイターは、全員ニセモノだと思う。
そのぐらい「シン・ゴジラ」は突き抜けている。
うらやましくて仕方ないのだ。
尖ったもので当てたのだ。

人間ドラマの排除。
先に述べたように、いわゆる「ドラマ」を全く描いていない。
脚本家教室や演出論を論じた書籍などで、マストとされる「ドラマ」。
それを完全に排除している。
なのに感情移入出来るという奇跡。
日本という実体のない概念そのものに感情移入させるという構造。
手法として全くもって新しい。
ゆえに日本人以外には(本当の意味では)理解できない映画になっている。
だからこそ、僕はこの「シン・ゴジラ」を日本映画史に残る傑作だと断じるのだ。

リアリズムの徹底。
映画におけるリアリズムとはなにか。
映画という虚構の中でリアリズムを追求したとき、庵野秀明監督は、語るべき物語の器はすこぶる現実に即したもの、そしてその中に登場する人物はおしなべて虚構の人物という答えを用意した。
328人も登場する役者たち。
ワンシーンにしか登場しない役者たち、その物量を積み重ねることによって、庵野秀明監督は「個々の役者の記号化=個性の排除」を徹底している。
つまり、全ての登場人物は、リアルを物語るための単なる歯車にすぎない。
だから、観客はリアルなものとしてこの物語を受け入れる。
例えば、劇中に何度も出てくるテレビ局のアナウンサーやレポーターを見てみよう。
リアリズムを演出するために、たいていの映画やドラマがここに、実際我々が暮らすこの現実世界で顔を知られている有名アナウンサーや有名レポーターを実名で出演させる。
それ自体とても簡単だし、それをリアルの表現手法だとして全世界の表現者たちが当たり前のように多用してきた。
だが「シン・ゴジラ」には、現実世界で見たことのあるアナウンサーやレポーターは1人も出ない。
フジテレビのカトパンは出て来ない。
芸能レポーターの東海林のり子や阿部祐二は出て来ない。
そうではなく、アナやレポーターにも虚構の人物を(あえて)使う。
全ての登場人物を虚構でまとめ上げることで、全体としてのリアリティを担保する。
これも庵野秀明が(もしかしたら直感的に)選択したリアリズムの表現手法である。

読めないテロップ。
多用されるテロップは尺が短すぎて読み切れない。
だが、読む必要はない。
出すことが大事なのだ。
そこに書かれているのは、完璧なまでに正式な情報だ。
自衛隊が保有する兵器の正式名称、政治家たちの正式な肩書き、戦闘がおこなわれる地域の正式な地名、etc…
あえてそれらを読めない尺で文字表記するのは、正確な情報を文字で出し続けることによるリアリズム表現である。
正しい情報を文字で出し続けることによって、庵野秀明監督はゴジラという虚構の出現すらリアルの領域に引きずり込むのだ。

死を描かない。
普通の映画だと「うわぁぁぁぁぁっ!」とか言って死ぬ市政の民が必ず描かれる。
だが「シン・ゴジラ」には一切そういった描写がない。
死自体はたくさん起こっているのに、死を直接的に描かないことによって逆にリアリズムを表現している。
考えみれば、我々現代人は普段の生活の中、死の瞬間を目にすることはまずない。
事件が事故が起こっても、死者の「数」や「顔写真」だけを知り、死の瞬間まで映像で見ることはない。
だからこそ、庵野秀明は今回の映画で直接的な死の描写を一切排除している。。
だからこそ劇中で起こる災悪がリアルに見えるのだ。

とにかくスゴイ映画だ。
日本人の中にはこの映画を「嫌い」だと感じる人もいるだろう。
そんなのは当たり前で、100人中100人が絶賛するエンタメなど世の中には存在しない。
だが「シン・ゴジラ」が、かなり多くの日本人の心を揺さぶり、日本人に生まれた現実をプラスに感じさせてくれるポジティブな読後感を味あわせてくれる良作に仕上がっているという感想は決してウソではなかろう。
少なくとも多くの人々を(日本人を)、興奮させ、感動させ、日本人であることの誇りと宿命と背負った過去を感じさせてくれる映画がこの2016年の世界に生まれたことは大いに祝福していいと思うのだ。

あとひとつ。
あとで思い出して泣けるという映画はあまりない。
泣けるのだ、「シン・ゴジラ」。
劇中で描かれた日本があまりにも美しすぎて。

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太陽を盗んだ男 [DVD]
クリエーター情報なし
ショウゲート


「シン・ゴジラ」の関連作として観賞。
その感想。

すごい!
いやぁすごい!
こんなにハチャメチャで破綻していてトンデモ展開だらけなのに全体としてとても面白い映画は珍しい。
星は3つ半。★★★1/2

無茶苦茶なのにスタイリッシュ。
沢田研二と菅原文太と池上季実子の魅力で観ていられる不思議な映画。
大いに気に入った。
「新幹線大爆破」がわずかなトンデモ展開で一気にしらけるのとは違い、突き抜けたトンデモ展開を積み重ねていくとそれはそれで気持ちよくなっていくという新たな発見。
さすが何かの雑誌のアンケートで「面白かった邦画歴代第3位」に選ばれているだけのことはある。
ところどころ無茶苦茶なのに許せてしまうこの感覚はなんなんだろう?
不思議だ。
確かに池上季実子演じるDJは、「シン・ゴジラ」での石原さとみに重なる。
最後の沢田研二と菅原文太の決戦の舞台は科学技術館屋上だ。
そういった「シン・ゴジラ」とのつながりもご愛嬌。

以下ネタバレ含む。





映画のラストなんて、どうやら東京のど真ん中で原爆が爆発して終了(笑)。
そんな終わりかよ!
格好いいと言わずにどうするのか?
スゲーな、この頃の日本映画。
作家性だよね、作家性。
大事なのは作家性なのだよ、最終的には。
どれだけヒットしようが作家性がなかったらそれはただの消耗品に過ぎないのだ。

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着実に口コミが広がっているようだ。
世紀の傑作「シン・ゴジラ」。
興行収入100億越えのメガヒットを目指して欲しい。
そのぐらいこの映画に僕は思い入れを持ってしまった。

ではこの映画のいったい何がすごいのか?
多くの観客が本能的に「面白かった」「すごかった」「感動した」と述べているが、本質を見抜いている人は実は数少ない。
賞賛の根底にはある1つの理屈がある。
リアルを最大限表現するために徹底した「ドラマツルギーの排除」だ。

ドラマツルギーとはなにか?
人の「変化」である。
変化とは具体的には、例えば「成長」、例えば「失ったものの補完」、例えば「葛藤の末の選択」などを指す。
映画が始まった時点をAとする。
映画が終わった時点をBとする。
この AからBへ行く間に、映画やテレビドラマの登場人物は、必ずこの「変化」を遂げる。
なぜなら、そうではないとダメだと世界中のクリエイターが本能で悟っているからだ。
実際、この「変化=ドラマ」がないものは屈指の名作とはなり得ない。
ホラーやサスペンス作品の中にたまにストーリーの面白さだけで押し切っていて、登場人物の「変化」が一切描かれない作品もあるが、それは歴史に残る屈指の名作にはならない。
屈指の名作となった作品は、必ずこの「変化」という名のドラマツルギーを内包している。

しかし、である。
「シン・ゴジラ」には、ドラマツルギーがないのだ。
つまり、映画が始まったA地点から映画が終わるB地点に向かう間、登場人物の誰1人として「変化」がないのだ。
(ドラマあるじゃん、という人は「ドラマ」と「ストーリー」を混同している。「シン・ゴジラ」にはストーリーしかない)

あれほどリアリティで話題になった「ゼログラビティ」。
だが主人公の女宇宙飛行士は劇中で明らかな成長を遂げている。
もう1つの宇宙リアリティ映画「オデッセイ」でも成長や葛藤の描写は随所に見られる。
「シン・ゴジラ」に構造的にはとても似ている「インディペンデンス・デイ」(昔のヤツ)。
だが大統領は別れた妻との絆を取り戻すし(喪失の補完)、映画の最後には特攻というもっとも分かりやすい献身的成長を遂げる人物すら現れる。
そう、人間ドラマを描かずに済まされる映画やテレビドラマやお芝居は、この世にまずなかったのだ。
そもそも人間ドラマの入っていない脚本は、プロデューサーやらなんやらよく分からないお偉いさんなど、いろんな関係者に指摘を受けて、出来るだけ濃厚な人間ドラマを多く内包するように変更されてしまうのが常なのだ(実際経験がある・笑)。

なぜそんなにストーリーの中にドラマツルギーを入れたいのか?
それは観客に「変化」の疑似体験をさせたいからである。
つまり「感情移入」の対象となる登場人物を、劇中で「変化」させる。
これによって、現実の人生ではなかなか(したくても)実現できない「成長」や「喪失の復権」や「葛藤の末の選択」を、観客に味あわせてあげる。
そうすることで、観客は「変化」の疑似体験により、深い感動を覚えたり、大きな満足を得て、劇場をあとにするのである。

今までの映画、テレビドラマは、!00%この「人間ドラマ」を(無理をしてでも)入れ込んできた。
そうじゃないと、プロフェッショナルたちに「バカ」とか「阿呆」と、あとで後ろ指を指されるのだ。
だから必死に映画やテレビドラマやお芝居の製作者たちは「人間ドラマ」を描こうとしてきた。
物語の登場人物は(とくに主人公は)、必ずA地点からB地点に行くまでの間に「変化」しなくてはならないのだ。
これが、世界中の「物語(ストーリー)」の基本なのだ。
なにしろ事実を事実として記録すればいいはずのドキュメンタリーですら、世界中のドキュメンタリー作家が「変化」を描こうともがいているのだ。
「変化」が撮れるまで対象に密着しているのが、多くのドキュメンタリーフィルムの現状であり、変化を捉える(変化したように見える)編集こそ、ドキュメンタリー作家たちの腕の見せ所なのだ。

ところがどっこい「シン・ゴジラ」である。
登場人物は誰1人「変化」しない。
ただひたすら、最初から最後まで、自分の職務を果たしているだけだ。
ストーリーがA地点からB地点に行く間に、誰1人として「成長」も「喪失の補完」も「葛藤」もしない。
主人公(だと思われる)矢口蘭童は、映画が始まった時点から職務に燃えていて、映画が終わるときも同じテンションで職務に燃える政治家として終わる。
他の人物も皆そうだ。
誰1人として、ゴジラ襲来という国難に際して、「変化」を遂げていない。
普通の映画製作者なら、例えば、矢口蘭童の妻子を描き、職務と妻子の命を救いに行きたいという想いの間で揺れる若き政治家の葛藤を描くだろう。
竹野内豊演じるクールな政治家には、最初クールなのに、最後では国民の命を救うために熱い決断を下すような成長を描くだろう。
石原さとみ演じる野心家の米国政治家には、最初野心に燃えていたのに、最後、日本人たちの命を救うために自分のキャリアを放り出す選択を下すさまを描くだろう。
少し考えただけでも、人間ドラマを描くための要素はいくらでも転がっている。
そんなものを描くのは簡単なのだ。
なのに、描かない。
完全に排除した。
これが、「シン・ゴジラ」が10年に一度、50年に一度の傑作だと僕が思う最大の理由だ。

つまり、言葉を変えれば、登場人物の誰1人にも感情移入出来ない作りになっているのだ。
では観客はなにに感情移入するのか?
それは、「日本そのもの」に感情移入するのである。
(これは僕のスター・ウォーズファンクラブの友人が指摘してくれたことで、僕もハッとした)
日本そのものへの感情移入という構造。
観客たちがその構造に入り込んでくれるはずと信じて、映画にしたのが「シン・ゴジラ」に相違ない。
国難を描いた映画は過去にもいくらでもあったが、どれもこれもどうしてもお約束の人間ドラマを必ず放り込んでいた。
だが、今回の「シン・ゴジラ」は人間ドラマを徹底排除し、観客にただひとつ「日本への感情移入」を強いる構造で作られているのだ。
これこそ、「シン・ゴジラ」の凄さのキモであり真髄であり種明かしだ。

庵野秀明監督がこのマジックを狙っていたのかどうかは分からない。
ゴジラという虚構にリアリズムを持たせるため、ゴジラ以外の要素には徹底したリアリズムを追求した結果、庵野監督も意図せず偶然の産物的にこの「人間ドラマの完全排除」が完成したのかも知れない。
その辺は分からない(僕はきちんと考えたあげく意図して人間ドラマを排除していると思うが)。

とにかく、映画館で観客皆が感じている「シン・ゴジラ」の面白さ、凄さ、感動……その根底にあるのは、世界中のありとあらゆる映画やテレビドラマ、お芝居が今まで捨てることが出来なかった「人間ドラマ」というお約束の排除にあったのである。

「シン・ゴジラ」に散見する「リアリズムを徹底するための様々な手法」は、現実の世界には滅多に存在しない「人間ドラマ」を排除するための方法論だったのだろう。
そう、現実世界では映画やドラマやお芝居で起こるような人間ドラマなんて滅多に起こらないのだ。
だからこそ、人間ドラマを排除したら、もっともリアリズムに溢れるストーリーが構築できたというわけだ。

「シン・ゴジラ」には、人間ドラマは存在しない。
だが「シン・ゴジラ」では、ひとつ大きな」成長」が描かれているような気がしてならない。
それは、「日本の成長」だ。
日本が成長するというドラマが、「シン・ゴジラ」では描かれているのではないか?
ひとつの国が成長するというドラマ、それが「シン・ゴジラ」が成し遂げた奇跡の本質だとしたら、なおさらこの映画は世紀の傑作として後世に語り継がれていくだろうと思うのだ。



P.S.
リアリズムに徹した「シン・ゴジラ」」に関して、それを真に受けすぎた右や左の人たちが「エリートたちが活躍するばかりで庶民を描かないイデオロギー偏重」だとか「憲法9条改正を世論誘導するプロパガンダ」だとか的はずれな批判をしているが、いやいや根本的にはこれただの娯楽映画ですから。
スクリーン内で描かれる日本政府の姿は、あくまで監督の理想でありフィクション(ファンタジー)だということを忘れてはならない。

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「シン・ゴジラ」の素晴らしさは先に述べた通り。
10年に一度の傑作、いや50年に一度の傑作とすら思っている。
映画の新たな「手法」を発明したという点に於いて。
この先、同じことをした映画は全て「シン・ゴジラ」のパクリと言われるだろう。
だから、二度と同じ手法は使えない。
そう言った意味での「10年に一度」であり、「50年に一度」である。

そんな「シン・ゴジラ」の関連作として、古い映画だが「新幹線大爆破」を勧める人がネットにチラホラ見受けられる。
なるほど、庵野監督も影響を受けた映画らしい。
ならば観てみようと思って観ていたのだが、途中で止めて、このブログを書いている。

なにこの信じられないトンデモご都合主義火事(笑)。
そしてなんなのこの警察のトンデモ馬鹿さ加減(笑)。
もう笑うというか、しらけるというかで、途中で思わず上映を止めてしまった。
ストーリーのセットアップは抜群に面白いのに、たまに見られるトンデモ展開が映画の質を貶めている。
おそらく庵野秀明監督は、この「新幹線大爆破」や、それこそ初代「ゴジラ(1954)」に見受けられる少しのトンデモ展開で全てが台無しになるという怖さを教訓に、とことんトンデモに警戒して「シン・ゴジラ」をリアリズムに徹して製作したのだろう。
だから、あんな世紀の傑作が生まれたのだ。
「新幹線大爆破」を反面教師として。
「ゴジラ(1954)」を反面教師として。

惜しい。
星3つ。★★★
全体的にはとーってもいいのに、バカ警察とまさかの火事が全てを台無しにしている。
観た人には分かる(笑)。
それ以外のところはとーーーーってもいい。
回想シーンの挟み方とかもう最高。
なのに、なのになのに、バカ警察と火事が全てを台無しにするのだ。

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