そこそこの放送作家・堀田延が、そこそこ真面目に、そこそこ冗談を交えつつ、そこそこの頻度で記す、そこそこのブログ。
人生そこそこでいいじゃない





映画「ジョーズ」の有名なシーンに、怪我自慢のシーンがある。
このシーンが僕は好きで、飲みながらたまに観返したりするのだが、本日また観返していてふと気付いた。
「これ、英語のセリフ“eel”をちゃんと“ウツボ”って訳してるじゃん」と。
画像はそのシーンを撮影したものだ。
“eel”は字幕で“ウツボ”と訳されている。
海の“eel”は“ウツボ”だ。
一般常識だ。

そこでまた思い出したのだ。
「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」の字幕のことを。

戸田奈津子はあの映画の字幕で
“eel”を“ウナギ”って訳してたなって!w


海の中に居て、体長が2メートルにもなって、人を襲ってくる“eel”はどう考えてもウツボなわけだ。
正しくはウツボは“moray eel”で「ジョーズ」のセリフは“moray eel”なのだが、インディ5の脚本上の“eel”は、人を襲い巨大であるという前後のセリフの文脈からしてウツボを指していることが明白だ。
そうじゃないのだとしたら、監督や脚本家がアホすぎてウツボとウナギを間違ったのか、あるいは「うなぎ?海に?は?」という高度なボケのつもりか?
なんにせよ映画に出てくる生物はウツボなので、日本語字幕はウツボと訳すべきだろう。
そんなことは「運命のダイヤル」の該当シーンを見ればすぐに分かる。
場面は明らかに海上。
登場人物たちは2メートルを超える凶暴な“eel”について話しているのだ。
ところが“eel”を、戸田奈津子は「運命のダイヤル」でそのまま“ウナギ”と直訳した。

これ、恐ろしいことに、公開時の劇場だけの話ではない。
なんとソフト化された今も字幕は“ウナギ”のままで、
しかも日本語吹き替えのセリフも“ウナギ”なのだ。


日本のDisneyの担当が誰だか知らん。
しかし、余りにもお粗末じゃないだろうか?
あの“eel”は誰がどう考えても“ウツボ”だろ?
そんなことも瞬時に見抜けないほど、戸田奈津子とDisneyの担当社員は注意力散漫なのか?
ただでさえしょうもない映画が、あの“ウナギ”のせいでますますしょうもないものになっていて、それが未来永劫残るらしいw

備忘録としてここに文章で残す。
おそらくこの“eel”=“ウナギ”問題以外にも、「運命のダイヤル」の中に戸田奈津子の適当な意訳によって起こっている不具合はたくさんあるのだと思う。
しかし、そんなものをいちいち探して検証するほど、僕のエネルギーは残っていない。
なぜなら、映画自体の出来がどうでもいいからだ。
あんな駄作にそんなエネルギーは出ない。
つまり、昔だったらカンカンになって直接Disneyに抗議のメールを出しているような案件なのだが、もはや映画自体がどうでもいいのでそんな気力も出ない。
なので、こうしてブログに記して、後世に記録として残ればいいなぁぐらいにしか思わんのだ。

にしても。
あれが“ウナギ”という字幕にになっていて何の疑問も抱かない日本人は、ある意味で知的に劣化していると思う。
字幕をつける時点で、吹き替えを録音する時点で、スタッフの中に1人ぐらいこの過ちに気付く人間がいなかったというのが恐ろしい。

戸田奈津子って、いつまで字幕翻訳家として現役続けるつもりなのか?
あなたのせいで、酷い目に遭わされた映画を僕はたくさん知っている。
「ロード・オブ・ザ・リング/旅の仲間たち」でさんざん糾弾され、痛い目に遭ったはずではないのか?
「ザ・ロック」という映画の誤訳では、僕は未だにあなたのことを許せない。
あなたの誤訳のせいで、エド・ハリス演じる軍人のキャラクターがまるで違うものになってしまい、日本の観客だけがあの映画の内容を誤解したんだぜ。
他にも、「アポロ13」でスイッチのオンとオフを全部逆に誤訳したり、致命的な誤訳の数々を僕は目撃してきた。
それなのに未だにたまに字幕翻訳に名前を出し、意味の分からない誤訳を撒き散らしている。
いい加減引退すればいいのに。

マジでそう思う。


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ゴジラの生誕70周年記念作品で、日本で製作された実写のゴジラ映画としては通算30作目。
映画評論YouTuberたちがサムネで軒並み絶賛しているっぽかったので、楽しみに観てきた。
その感想。

はい、いつもの山崎貴。
この人は本来、白組のVFXアーティストで、映画監督でも脚本家でもない。
監督するだけならまだ良いが、原作なしで単独でこの人が脚本を書くといつもこうなる。
この人のフィルモグラフィーを調べてみれば一目瞭然。
他の脚本家と共同執筆した作品はまだマシ。
きっちりした原作があるものはそこからセリフを引っ張ってこれるのでまだマシ。
ところが、原作なしのオリジナル脚本を彼が単独で書くとこうなる。
とにかく、ドラマ部分の脚本(場面展開やセリフ)が陳腐で陳腐で、もう観ていられないお遊戯会レベル。
確かにゴジラ回りのCGやゴジラの戦闘シーンの迫力などは頑張っている。
ただし、映画の全体尺の半分以上を占める長い長いドラマ部分が笑っちゃうぐらい「安い」ので、とにかくツライし、乗れない。
役者たちも可哀想。
こんな脚本だとどう芝居してもそりゃこうなる。
どこかで聞いたようなセリフだらけ(「シン・ゴジラ」に完全に引きずられた引用セリフ多数)、どこかで観たような展開だらけ(「ジュラシックパーク」と「ジョーズ」と「ダンケルク」かと思ったよねw)、ああ、ひどいったらありゃしない。
星は1つ半。★1/2
何が傑作だ?
「シン・ゴジラ」の足の小指の爪にも及ばない出来。

以下ネタバレ。















「シン・ゴジラ」が素晴らしかったのは、ゴジラはもちろん全ての登場人物に必然的な行動動機があり、ただの脚本上の都合で偶然登場人物になる人物がいないことだ。
「シン・ゴジラ」のゴジラは、日本に怨みを持つ牧教授が明らかに自らの意志で東京湾に上陸させ、日本政府に挑ませた巨大不明生物であり、それに対処するのはもちろん政府の役人たち、つまり「仕事」だ。
アメリカは日米安保の必然として、また世界の警察として必然的にこの事態に介入してくる。
全てが必然で覆い尽くされている。
ところが、である。
「ゴジラ-1.0」はその辺がことごとく「偶然」で処理される。
たまたま特攻を拒否して大戸島に着陸した主人公・敷島(神木隆之介)は、たまたまそこでゴジラに遭遇し、因縁とトラウマが発生する。
戦後の闇市で主人公敷島はヒロイン(浜辺美波)にたまたま赤ん坊を押しつけられ、そんな偶然から2人の生活が始まる。
で、主人公敷島がたまたま志願した機雷除去の木造船の仕事に、たまたまゴジラ殲滅作戦を考案する学者(吉岡秀隆)がいる。
そんなたまたまだらけの脚本、あるかいな?w
起きること起きることが全部が全部、山崎貴の脳内で都合良く処理された偶然の積み重ねで、ひたすら出来ている。
だから、そんなご都合脚本には、強烈なリアリティあるセリフや描写が必要になってくるのだが、そこも薄っぺらい。
まるで、高校生が文化祭で上演するメロドラマの芝居みたいな安いセリフを積まれるので、まぁ観ていられない。
悲愴なセリフを悲愴な表情でいかにも悲愴な感じに演技する神木隆之介の姿に、むしろ笑ってしまう。
「うわあああぁぁぁぁぁぁぁ」とかカメラの前で長回しで叫ばさせられている神木隆之介が可哀想で仕方ない。
プロの役者だから台本にあったらそりゃ監督の指示通りに演じるんだろうが、あれは可哀想だろ。
「ジュラシック・パーク」にしか見えない最初のゴジラ登場。
「ジョーズ」をパクった口内機雷爆破。
「シン・ゴジラ」をなぞっただけのゴジラの背びれ放射能キャノンの描写。
零戦で周りを飛び回っただけで怒ってあとを追ってくる間抜けなゴジラ(逆に可愛すぎて爆笑)。
「ダンケルク」やら「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」みたいに、船がたくさん助けにやってくる安すぎるラストの展開。
しかも、その助け船たちが戦艦2隻?にロープをくくりつける速さが速すぎてウソだろと突っ込まざるを得ないあのご都合脚本。
前半で一度ゴジラの口の中で機雷を爆発させてすぐ再生する様を見せたがため、ラストもまた同じように口の中で爆弾を爆発させても「また再生するんじゃねーの」としか思えないカタルシスの無さなのに、なんと今回はなんか知らんけど退治できちゃうというご都合脚本。
とにかくまぁ、脚本が稚拙。
そして全てが薄っぺらい。
1947年の戦後2年目の東京なのに、なぜか進駐軍は映らない。
米ソの冷戦がウンヌン……のセリフで誤魔化すが、そもそも1947年にまだ米ソの冷戦は始まっていない。
放射能怪獣ゴジラの口から出た原爆級の爆発で都心は吹き飛び、黒い雨が降るというのに、その後被爆した街や被爆者たちの悲惨な姿は何も出て来ない。
出てくる風景全てがどこか箱庭のようで現実感がないのは「オールウェイズ/3丁目の夕日」の時から変わらない悪癖。
で、戦争を引きずる特攻隊員・敷島が、果たして生きるのか死ぬのか、そのどちらの覚悟に至るのかがドラマの主軸のはずなのに、最後の最後の「生きる」を選ぶ展開が、ただのサプライズで処理され、最も盛り上がるはずの感動的なはずの主人公の決断が観客へのサプライズで終わる。
一番美味しいところを逃すという信じられない子供の脚本。
さらに、ゴジラがただの害悪的な存在であり、人間の愚かさが故に生み出された悲劇的生物であるゴジラという視点がまったく抜け落ちていて、人間の中にゴジラに同情する人物が1人もいないのって、それゴジラなのか?とまで言わざるを得ない。
とにかくまぁ、脚本が稚拙。
そして薄っぺらい時代描写。
箱庭のような稚拙な世界観。

最後に言おう。
怪獣ゴジラはなにかのメタファーであり、芯の通ったメタファーを失ったゴジラはただのモンスターだ。
ハリウッドのゴジラがまさにそうで、だからあれらの映画は伝説にならない。
この山崎ゴジラも一緒。
ただのモンスターでしかない。
きちんとメタファーとして痛みや教訓を背負わないなら、ゴジラじゃなくて適当なモンスターでいい。
こんなものは「バトルシップ」を観ているのと変わらん。
というか、だったら「バトルシップ」の方が面白い。

ゴジラは「シン・ゴジラ」が奇跡の傑作。
そして1954年公開の1作目が最初にして最後のオリジナル。
もう作らなくて良いと思う。
もはや1954年の「ゴジラ」と「シン・ゴジラ」は絶対に越えられない壁だと思う。

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昨年(2022年)公開され、話題になった日本のインディーズ映画。
とある中小広告代理店の社員たちが全員タイムリープしているという設定で始まる物語。
友人づてに絶賛の評判を聞いていたのだが、劇場で見る機会が持てず、今回Netflixで配信がスタートしたので早速観てみた。
その感想。

実に良く出来たインディーズだった。
星は4つ。★★★★
本当に「素晴らしい」のひとこと。
1時間半弱と短い映画なので、騙されたと思ってNetflix加入者はこの作品、観たほうがいい。
新進気鋭の日本の映画クリエイターたちが、こんなに素晴らしい発想でよくありがちなタイムリープものを新たな地平に導いたことに感動すら覚えると思う。

確かにひとことで言えば「タイムリープもの」だ。
ある小さな広告代理店のオフィスを舞台に、ある1週間が永遠にグルグル循環を続けている。
この永遠に終わらない1週間を終わらせるためにはどうすればいいのか?というのが映画のタテ軸ではある。
だが、そこに徐々に現れてくる物語は「お仕事もの」であり「フェミニストもの」であり「輪廻転生もの」であり「中年親父の悲哀もの」であり、そして最後には「人生とは?」をきっちり突きつけてくるというとんでもない展開を見せる。
タイムリープものとして想像している範囲とは違う方向に大きく舵を切っていく後半、「ああ、そう来たか」と涙がにじむ。
この辺はネタバレになるのでなんとも言いがたいが、「アレを映画の中で映像で見せたこと」がまずクリエイターとして思い切っていて、僕なんかは目からウロコが落ちた。
なるほど、映画だけど(若干ネタバレだが)画と文字で見せていくのね……という思い切りの良さ。
この辺がこの脚本や演出の素晴らしさであり、他にはこんな映画観たことないので、そりゃあインディーズとして話題になるよなぁという感じである。
まぁ、何を言っているのか分からないと思うが、とりあえず観てみて欲しい。
Netflixに加入している日本人が、今いちばん見るべきソフトはこの「MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない」で間違いないと思う。

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