蟻の話だ。
僕は仕事に車で出かける。
ほぼ毎日車を運転して出かける。
そしてしばらく運転したあとに気付くのだ。
蟻が乗っていることに。
蟻がフロントガラスを歩いている。
ボンネットの上だったり、サイドミラーの上だったりもする。
自宅に駐車している僕の車に乗っかっているとき、運悪く発車してしまったのだ。
車に乗ったまま、何キロも離れた場所まで移動してしまったのだ。
故郷の巣から、仲間たちのそばから、仕えていた女王蟻のそばから、何キロも遠くに来てしまったのだ。
その小さな身体の縮尺に照らし合わせてみれば、それはもう途方もなく遠い場所まで連れてこられたに等しい。
例えは悪いが、某国に拉致られてしまった人のようなものだろう。
ある日突然車に乗ってウロウロしていたがために遠くまで連れてこられてしまって一人ぼっちの蟻が、僕は不憫でしかたないのである。
だがどうしようもない。
こっちは運転中だ。
仕事に向かっているのだ。
わざわざ自宅に戻り、蟻を降ろすわけにもいかない。
だからただひたすら祈るのだ。
なんとか丸1日この車にしがみついていろ、と。
そしたら故郷の巣のそばにまた戻るから、と。
そしたら仲間に再会できるぞ、と。
そしたら故郷の巣に戻れるぞ、と。
だが、そんな僕の願いも虚しく、蟻はいつのまにかどこかに消えている。
おそらく風に飛ばされ、どこか遠くの右も左も分からぬ道路上に、落ちたのだ。
一人ぼっち、異国の地を彷徨っているのだ。
故郷から何キロも離れた場所で、孤独にうちひしがれている蟻のことを思うと、悲しくなる。
何かとてつもなく悪いことをしてしまったような気がする。
僕は車を運転しただけなのに。
蟻は果たして新しい仲間が見つけられるのだろうか?
故郷から遠い地で、前向きに新天地が探せるのだろうか?
別の巣の蟻たちの間にそっと溶け込めたりするのだろうか?
……分からない。
あの蟻の運命は?
生きていて欲しい。
ただそう祈るだけである。
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