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日本古代史の謎

2024-07-29 15:00:58 | 日記
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☆任那の日本府


なぜ古代、中世の日本国は(いや、古代中世のみならずその後に至っても)、朝
鮮半島にあれほど拘泥したのか? 5.6世紀の任那日本府、秀吉の朝鮮侵攻、
明治時代の植民地化などなど、日本の朝鮮半島への関心の強さを示す事例は多数
ある。


任那の日本府については、元々そんなものは存在なかったという説を含めて諸説
紛々、確かなことは不明であるが、大和朝廷ないしは日本列島内の倭国(倭)が,
5世紀後半に加羅諸国を一括して,直接支配したとする説がある。


この5世紀中頃という時代は、AD270年の応神天皇又は313年の仁徳天皇
の即位を起源とする、大和王朝の発足から僅か百数十年しかたっていないのであ
る。 ここれに先立つ100年程前には、かの有名な「耶馬台国」があった。




3世紀初頭AD210年頃、卑弥呼の統べる邪馬台国は、魏志倭人伝によると、
「男子は大小となく、みな黥面文身す」、つまり男は顔にも身体にも入れ墨をし
ていたという。また、「衣を作ること単被のごとく、その中央を穿ち頭を貫きて
此を衣る。」ともある。 袖などのある複雑な衣服は作れないので、古代ローマ
時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいただけの服を着ていた。
しかも全てはだしであり、縦穴式の住居に住んで食事は手づかみであったという。


未だ独自の文字は存在せず、漢字を読み書きできるものはごく一部の者のみだっ
た。 弥生時代末期のことである。


ともあれ、恐ろしく遅れた、当時としても最後進国の部類に入るような国であっ
たことは確からしい。 放送禁止用語でいえば、「土人」である。 FIFAラ
ンキングにすれば、150何位とかいうあたりであろう。(^^;




なのにそれから僅か2、300年後の大和王朝初期の時代には、曲がりなりにも
中国の事物や風習を取り入れ、鉄製の武器を使用し、文字も5、6世紀頃には漢
字を簡略化したいわゆる万葉仮名が大いに使用されるようになった。




日本書紀は720年に、古事記は712年に完成


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☆黒いモノリスは降り立った?


大和朝廷の起源はAD270年の応神天皇又は313年の仁徳天皇の即位あたり
とされている。 ただしこの時代の人々の人物、生活や風物はほとんど明らかに
されていない。 その後593年の推古天皇(女帝)の時代になって、我々にも
おなじみの聖徳太子や蘇我入鹿などの名前が出てくる。


世界のトップ文明の推移は、約5千年前の人類最初の文明と言われるシュメール
文明に端を発し、その後エジプトがBC3千年からおよそ2、3千年を制し、中
国の時代が1世紀から10世紀頃までのおよそ千年、その間古代ペルシャ文明な
どを挟み、その後10世紀から20世紀はヨーロッパの時代である。


AD1年から200年頃の日本の技術的なレベルは、当時の最先端国である大陸
やエジプト、ローマより数百年或は千年以上も遅れていたと思われる。 それが
僅か数百年後の大和王朝初期には、未だ大陸との差はあるものの、その差はかな
り僅かとなっていた。  現代ならば、100年足らずで最低クラスから最高クラス
へと飛躍できる程イノベーションの速度は速い。 しかし、この頃の技術進歩の
速度は現代とは違い、2.300年ではさしたる変化は見られない程の、遅々た
る速度だったのである。 この時代にこのような速度で、「文明開化」を果たし
た国は、他には全く見られないのだ。


なぜこのような急速な進歩が古代日本において行われたのか? 単に大陸の技術
を急速に取り入れたということだけなのだろうか? 邪馬台国成立より遥か前か
ら、大陸に渡る和人はかなりいたのだ。 この間に航海技術が格段に進歩したと
いうことも、ありえないだろう。 この頃大陸や朝鮮半島の情勢が急を告げ、倭
国へ避難する中国人半島人がいたことは事実だろうが、それだけの理由ではなか
ろう。 それ以前から日本へ渡来する中国人半島人は相当数いたのだから。 こ
の2、3百年の間に、これだけドラスティックな変化が行われるには、何かもっ
と他の原因があったのではないだろうか?


例えば・・・ 黒い巨大な方形の石板が、ある朝邪馬台国の卑弥呼の前に降り立っ
たとか・・・


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☆日本人の起源


日本人の起源については、未だ不詳である。 しかし近年日本人の起源について
の研究がかなり進み、ある程度のことはわかってきた。 まず、南の島から黒潮
に乗って海洋民族が渡ってきた。 これは現在ならフィリピンやインドネシアに
当たるネシア系の人々であろう。 これがいわゆる「隼人族」の祖先と思われる。


卑弥呼の国耶馬台国の人々は、魏志倭人伝の記述を信じるならば、南方系の隼人
族ではなかったかと思われる。


今から1万5千年ほど前迄は、日本列島とフィリピンやインドネシア、更には朝
鮮半島などは陸続きであったといわれるので、移動はそれほど困難ではなかった
のであろう。


これとは別に北からアイヌを始め、ツングースやオロチョン、ギリヤークなど、
アイヌ系の人々も日本列島へ渡ってきた。 これが「蝦夷」(えみし、えぞ)と
後に呼ばれる人々であったのだろう。


これらの南方系北方系の人々の他に、当時地続きだった大陸からも多数の人々が
日本に入り込んでいたことは、想像に難くない。 これらの人々は時に混交し、
時に対立して日本人の起源となっていったのだろう。


その後温暖化に伴う海面の上昇により、日本列島は南方とも大陸とも隔絶した。 
そしてこれらの先住民族を、大陸からやってきた先進文明の持ち主である、とあ
る部族が征服して大和王朝を築いたというのが、私の考える所であり、また一般
的な説でもある。


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☆閉ざされた古代墳墓


ところで、畿内近辺には未だ調査の行われていない大規模な墳墓がいくつかある。
その代表的なものは纒向古墳群であり、箸中山古墳(伝箸墓) 全長280m、纒向勝山
古墳全長100mの前方後円墳、纒向矢塚古墳 全長96mなどがある。


いずれも4世紀前後の大規模な墳墓である。 箸中古墳の築造年代は、280-
300年頃とされているが、これはとりもなおさず「大和王朝発足の時代」であ
る。 これらを学術調査できれば、日本史の不明な部分の相当量が、一挙に
解明されるであろうというのが、学者たちの一致した意見である。


なのに、これらの墳墓は宮内庁により「陵墓」(大王の墓)に指定されており、そ
の調査は、宮内庁により全て拒絶されている。 曰く「個人の葬墓である」とい
うのがその理由だ。 しかし「個人の葬墓」といえば、エジプトのピラミッドも
王家の谷の遺跡も全て個人の葬墓である。 何故日本の王家の葬墓の調査のみが、
これほどかたくなに拒絶されるのだろうか?


これは、「もし調査されれば、天皇家にとってあまり芳しくない事実が公表され
るから」と、かんぐれないだろうか?


単に天皇家が大陸(半島)の出自である、というだけなら、これほど秘し隠さず
ともよい。 この説はほぼ日本史上の定説となっているからである。 


その「あまり芳しくない事実」とは? このあたりからは全くHal個人の憶測
邪推のたぐいであるので、そのつもりで読んでいただきたい。(^^;






では?


Halの邪推によれば、天皇家の出自は半島のとある部族である。 2.3世紀
の頃、この部族(どの部族かは不明)のある人物(これも不明、但し当然ある程
度の有力者ではあったろう)はよろしからぬ行いにより、部族から追放される。
この「よろしからぬ行い」がなんであるかは全く不明だが、単に戦争に敗れたと
か、部族内の権力抗争に後れをとったとかいうものではなさそうだ。 当時の資
料にもそのようなことは見あたらない。


或いは不倫とか幼児性愛(^^;とかそんなことかも知れない。 それはともかく、
この人物は一族朗党と共に海を渡り、東方の未開の地を目指す。 そして遅れた
土人共(放送禁止用語!)を蹴散らし、その地の覇権を握る。 彼らにとっては、
はだしに入れ墨、鉄製の武器もろくに持っていない先住民族など、物の数に入ら
なかっただろう。


そして出来上がったのが大和王朝である。 彼らは大陸の進んだ文明を先住民族
に教え、その上に君臨した。 こうして世界の最後進国は、先進国への第一歩を
踏み出したのである。


こう考えれば、宮内庁がかたくなに古代墳墓の調査を拒絶するのも理解できる。
万世一統の天皇家の祖先が、ロリコンであったとは・・・(^^)V 言えませぬよ
なあ・・・




ロリコン不倫はともかくとして、この人物が日本へ渡った理由が、あまり芳しく
ないものであったことは、確かであろう。 当時の日本は、上に書いた通り、世
界の僻地であり、未開野蛮の土地であった。 そんな所へわざわざ住み着こうと
いうのは、現在住んでいる所で厚遇されている人物のすることとも思えない。
恐らくは、「食い詰める」とか「あぶれる」とかいう表現が当てはまるような状
態であったのだろう。




もっとも、宮内庁の秘密主義は誰もが知る通りなので、これらの葬墓の調査拒否
は、単に天皇家の出自が半島にあるというだけの、案外単純な理由かも知れない
が・・・


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☆かくして狼は故郷を目指す


なぜこれほど日本は朝鮮半島にこだわるのか? これは当然のことであろう。
日本の支配者であるこの部族にとっては、半島は故郷である。 失地の回復にこ
だわるのは当然のこと。 よって国家創設後僅かにして半島へ出兵、失われた地
の奪還を試みる。 白村江の戦いに大敗しこれに失敗しても、その後故郷への夢
は長く生き続いて何度となく半島へ出兵し、ついに1910年朝鮮併合に到る。 
父祖の地の回復はここになったのである。


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★北からやってきた人々


縄文人の化石をDNA分析したところ、朝鮮、中国、タイの人種と一致した
ものがそれぞれ1、残りの17はシベリアのブリヤート人のものと一致した。
ブリヤート人は、23000年前のシベリアマリタ遺跡を残した人々である。


ホモサピエンスは20万年前アフリカで発生、10万年前から世界各地へ移動を開
始した。 


2万年前、氷河期の最寒冷期では、津軽海峡などが結氷し、大陸と地続きの状
態だったが、1万5千年前には急激な温暖化により海面が数十メートルも上昇、
現在の日本列島の状態となった。 ブリヤート人はこの間に日本列島に渡来し
たものと思われる。


同じ理由により、アジア中部からアメリカ大陸へのモンゴロイドの移動も、3万
年前に始まり、1万5千年前に終わった。


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魏が晋にかわった年(265年)の翌年10月にも,倭の女王が遣使貢献したとされているが,これ以後約150年に渡って晋の記録に倭の記事は
無い。再び倭が史書に登場するのは,413年倭使が東晋の安帝に朝見した時である。西晋王朝は滅び東晋王朝となっていた。
日本史上では,記録のないこの約150年間を「謎の四世紀」と呼んでいる。
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★邪馬台国はどこにある?


邪馬台国の所在を巡る論争は、江戸時代の新井白石の頃から続いている。 現
在では、畿内説と九州説が両横綱という所であるが、未だ決着はついていない。


ところで、この魏志倭人伝の記述には、色々とおかしな、あえて言えば理屈に
合わない所が多々あるように思える。 例を挙げれば、「水行10日陸行1月」
というあたりである。 その前には「東南へ500里、伊都国に到る。」など
邪馬台国へ到る道のりが記述してあるが、1里を400メートルとして記述通
りに進むと太平洋の真ん中で溺れてしまう。 方角か距離か、或いはその両方
がおかしいのである。 


もっとも当時の1里が現在の400メートルにあたるということも、確定的と
は言えないので、そもそも距離そのものがまるで当てにならないとも言える。




魏志倭人伝は三国志魏書東夷伝の中の一部を通称したものであるが、倭国の国
名や人名、風習などかなり詳細に書かれている。 これほど詳細に倭国を調べ
たにしては、倭国へ至る距離と方角がいい加減過ぎないか? 


なお、この三国志は、おなじみの「三国志通俗演義」とはなんの関係もない。 
三国志は、3世紀における魏蜀呉の三国鼎立時代の史書であり、三国志演義は
明の時代に羅漢中によって書かれた、史実に潤色を加えたフィクション、小説
である。




以下これまたHalの邪説にすぎないのでそのつもりで。(^^;




この魏志倭人伝の作者は、直接倭国へ調査旅行したわけではあるまい。 恐ら
くは又聞きのその又又聞きというところであろう。 宴席のゲームに、多数並
んだ人々に、ある話しを隣の人に耳打ちさせ、次々と中継させると、最後の人
が語る話しは、最初のものとはまるで異なる、とんでもないものになっている、
というものがある。 


まして、当時は訪れる人も希な僻地蛮地の倭国のことである。 239年(魏の景
初3)から247年(正始8)まで、魏と倭国との間で通交はあったということは、三
国志にも書かれているが、直接倭国におもむき踏査した者がそれ程多数であっ
たとも思えない。その数少ない実地踏査をした者から伝え聞いた話しが、魏志
倭人伝の作者に届くまでには、「いろはにほへと」が「ABCDXYZ」位に
変化していても不思議はあるまい。


しかも、魏志倭人伝の原本は散逸して残されておらず、現在の研究は数種の写
本によって行われているが、写本ごとにかなりの違いがあり、この違いの解釈
も又論争の種である。 更に前述のごとく、1里の距離も、435メートル説
あり、85-90メートルの短里説あり、様々である。 方角にしても、全て
の方角が65度偏向しているという説あり、箇所によって(恣意的)に東を南
とする説あり、もうシッチャカメッチャカという状態だ。




魏志倭人伝(三国志)の作者は陳寿という人物だが、勿論この陳寿が実際に倭
国へ渡って魏志倭人伝を書いたわけではない。 又、「ならびに詔をもたらし
て金帛、錦けい、刀、鏡、采物を賜う。」、「今汝をもって親魏倭王となし、
金印紫綬をかし」のくだりの魏使・梯儁の一行が、距離方角を記したのでもあ
るまい。


倭国への行程は、狗邪韓国(釜山~金海付近)、対馬国あたりまでと、その後
はかなり異なる。 陳寿にこの行程を語った人物は、恐らくは狗邪韓国(釜山~
金海付近)、対馬国あたり迄は実際に行ったことはあるが、その先の倭国には
行ったことはないように思えるのだ。 倭国についての情報は、この人物が倭
人に聞いたものの、又聞き情報としか考えられない。 これが狗邪韓国(釜山~
金海付近)、対馬国あたり迄は1里400メートルのスケールで、その後の倭
国の部分は1里80-90メートルの短里である、という説も出る所以である。


方角と距離がこれ程妖しげな情報をMSに、いや元にするなら、私なら邪馬台
国はカノープス(南極星)の彼方にあると証明して見せる。(^^;




以下魏志倭人伝の行程を元にして、カノープスへの行き方を語る。


狗邪韓国から1、000余里の海を渡り対馬国に到着。対馬島の大きさは推定
で方400余里、人口は1、000余戸。
(この辺はそのまま)


対馬国から南へ1、000余里の海を渡り壱岐国に到着。壱岐島の大きさは推
定で方300里、人口は約3、000戸。
(これは「壱岐国」ではなく、「行き着く」の意である。 また「対馬から南
へ」は、「対馬から南へ向かって空に昇ると銀河鉄道に行き着く」の意である。)




壱岐国から1、000余里の海を渡り末盧国(佐賀県唐津市付近)に到着。人
口は4、 000余戸。
(この「海」は、勿論「星の海」である。 つまりは、どんどんどんどんと蘆
の末まで星の海を渡って進む、ということ。)


南へ水行20日で投馬国に至る。人口は推定50、000余戸。
(更に南を目指して星の海を20日も航海するのだ。 投馬よ、いや違った、飛
雄馬よ、お前は夜空に輝くあの星になるのだ・・・)




南へ水行10日・陸行1月で、女王の都の邪馬台国に至る。
(こうしてたどり着いたカノープス星に降り立ち、更に歩いて1月、ようやく
女王の国にたどりついた。 疲れた・・・)


というわけで、邪馬台国の位置は、カノープス星の彼方にあります。(^^;






というわけで、魏志倭人伝の細部、特に日数や距離などの数値は、ほとんど信
用できないと考えた方がいいのではあるまいか? つまりこの魏志倭人伝の記
述によって邪馬台国の所在地を比定することは、そもそも無理があるのである。
勿論全てがいい加減というわけではなく、倭国の風習や生活ぶりについては、
ある程度この書を信ずることができるだろう。 そのような事柄については、
例え伝聞であっても、ある程度の内容は確実に伝わるであろうからである。 
又これらの事柄は、伝聞の間に多少の変化はあっても、ある程度の情報は得ら
れるものだ。


しかし、数値や方角のような事柄は、伝聞に伝聞を重ねる間に著しく変化し、
場合によっては正反対になったり倍の数値になったりしてしまうことも、間々
あるのではないか? 風習などと異なり、方角日数が変化してしまったら、特
定の場所を比定するための情報としては、一文の価値もない。 このような理
由で、魏志倭人伝の記述による邪馬台国の地理的比定は、ほとんど不可能と思
える。




邪馬台国の所在地については、確かな物的証拠、つまり「ならびに詔をもたら
して金帛、錦けい、刀、鏡、采物を賜う。」の卑弥呼の銅鏡100枚や5尺刀2
口など、或いは「今汝をもって親魏倭王となし、金印紫綬をかし」の国璽とか
が発見された場所が、すなわち邪馬台国ということになるのだろう。 それら
は、恐らくは卑弥呼の墓に眠っている・・・




この卑弥呼の金印は、1784年(天明4)2月23日,博多湾志賀島で百姓甚兵衛が水
田の溝で発見したものとは異なるようで、こちらは《後漢書》にみえる光武帝
が建武中元2年(57),倭奴国王に贈ったとされる金印である。


又近年かなり大量に発見されている三角縁神獣鏡は、この卑弥呼の銅鏡と同一
のものとする説と、中国本土では発見されていないことから、全く別のもので
あるという説と両説あり、判断に苦しむ所である。 中国で発見されていない
ということは、或いは「輸出専用」に作られたということかも知れないし、又
は卑弥呼の銅鏡とは無関係のものということになるのかも知れない。



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