2000年には「ファントム」・「果てしなく青い、この空の下で・・・。」
・「終末の過ごし方」などの、PC18禁ゲームの秀作が相次いで発表さ
れた年である。
「ファントム」の高いストーリー性に裏打ちされたハードボイルドな
バイオレンス。 「青空」の一見学園もの風の出だしから、風土記的
伝奇物語へなだれ込む話の作り方の獅ウ。 「終末の過ごし方」の淡
いパステル調の不思議感覚とそこはかとないアンニュイ。
虚淵源・鷹取兵馬・大月涼樹という優れた作家達の、それぞれの持ち
味が良く出た傑作である。 いずれも他の作者では絶対に書けないと
いう、己が資質・方向性を十分に発揮した、個性的な作品である。
しかし、もしこれが2000年ではなく2006年にこれらが発売されたらば、
当時のような評価と売上が得られるだろうか?
これは非常に疑問である。 現在のPC18禁ゲーム業界では、作家達
の個性を生かした特徴的なゲームは、非常に作りづらい環境になって
きている。 才能ある作家がいないからではなく、至極単純にそのよ
うな商品は売れにくいからだ。
10年程前のDOS末期頃までは、コンシューマーゲームでは各種の制約が
非常に強くて独創的、特徴的なゲームは売りにくく、テーマや内容面で
はかなり画一的であったと言える。 これは当時のコンシューマー業界
を支配していたハードウェア制作会社の意向(要は何事もお子様向けにと
いう)もあったのだろう。
それに比べてPCゲームはその種の制約が緩かったためか、テーマも内容
も大変バラエティに富んだものが多かった。 代表的な例は、蛭田昌人、
菅野ひろゆきらのゲームである。
「ユーノ」のあの複雑巧緻を極めたフラグ処理は、攻略本片手にプレイ
してさえ、時々自分がどの時点にいるのかがわからなくなったりしたも
のだ。 内容にしても、あれを当時のコンシューマーゲームとして発売
しようとしても、まず不可能であったろうと思われる。
ところが、2000年より少し前を境に、このコンシューマー対PCの図式は
大きく変ってきた。 コンシューマーゲームでは新しいハードウェアメー
カーの参入により、これらの制約がかなり少なくなってきた。
それに反してPCゲームでは、制約の強化というよりは、冒険をしないと
いう姿勢が強くなり、「パート2」やファンディスクなど安全牌を求める
ようになった。 当然個性的な作品は次第に少なくなる傾向にある。
これはPCゲーム業界全体のパイが減少傾向にあるということと無縁では
なく、ある程度やむを得ないことではあるが・・・
この結果、現状ではユニークなゲームはコンシューマーに多くてPCには
少ないという、甚だ悲しい状況となってしまったのである。 「ガンパ
レードシリーズ」や「絢爛舞踊祭」、或いは「九龍妖魔学園記」などを
PCゲームで作ろうというメーカーは果たしてあるだろうか?
カンブリア紀には、ゲテモノとしか言いようのない、けったいな生物が爆
発的に発生した。 この多様性は決して生命のあだ花ではなく、その後の
地球上の生物進化に大きな役目を果たしたそうである。 進化においても
文化においても、画一は退化への一里塚、多様性は未来へと導く灯火だ。
私の数少ない自慢の種は、「ファントム」・「終末」・「シネマハウス」・
「TTB」・「スナッチャー」などを、他人の評価ではなく自分で発見し
て購入・プレイした、というものだ。 いずれも発売当初はそれほど話題
にもならず、その後口伝えにじわじわとその良さが理解されてきたという
作品である。 もっとも本当の所はあまり自慢もできない。 数知れぬ地
雷の山を踏み越え踏み越えして得たものだからだ。
願わくば、地雷を恐れぬ勇気あるプレーヤーが、この先増え続けてくれる
ことを・・・
・「終末の過ごし方」などの、PC18禁ゲームの秀作が相次いで発表さ
れた年である。
「ファントム」の高いストーリー性に裏打ちされたハードボイルドな
バイオレンス。 「青空」の一見学園もの風の出だしから、風土記的
伝奇物語へなだれ込む話の作り方の獅ウ。 「終末の過ごし方」の淡
いパステル調の不思議感覚とそこはかとないアンニュイ。
虚淵源・鷹取兵馬・大月涼樹という優れた作家達の、それぞれの持ち
味が良く出た傑作である。 いずれも他の作者では絶対に書けないと
いう、己が資質・方向性を十分に発揮した、個性的な作品である。
しかし、もしこれが2000年ではなく2006年にこれらが発売されたらば、
当時のような評価と売上が得られるだろうか?
これは非常に疑問である。 現在のPC18禁ゲーム業界では、作家達
の個性を生かした特徴的なゲームは、非常に作りづらい環境になって
きている。 才能ある作家がいないからではなく、至極単純にそのよ
うな商品は売れにくいからだ。
10年程前のDOS末期頃までは、コンシューマーゲームでは各種の制約が
非常に強くて独創的、特徴的なゲームは売りにくく、テーマや内容面で
はかなり画一的であったと言える。 これは当時のコンシューマー業界
を支配していたハードウェア制作会社の意向(要は何事もお子様向けにと
いう)もあったのだろう。
それに比べてPCゲームはその種の制約が緩かったためか、テーマも内容
も大変バラエティに富んだものが多かった。 代表的な例は、蛭田昌人、
菅野ひろゆきらのゲームである。
「ユーノ」のあの複雑巧緻を極めたフラグ処理は、攻略本片手にプレイ
してさえ、時々自分がどの時点にいるのかがわからなくなったりしたも
のだ。 内容にしても、あれを当時のコンシューマーゲームとして発売
しようとしても、まず不可能であったろうと思われる。
ところが、2000年より少し前を境に、このコンシューマー対PCの図式は
大きく変ってきた。 コンシューマーゲームでは新しいハードウェアメー
カーの参入により、これらの制約がかなり少なくなってきた。
それに反してPCゲームでは、制約の強化というよりは、冒険をしないと
いう姿勢が強くなり、「パート2」やファンディスクなど安全牌を求める
ようになった。 当然個性的な作品は次第に少なくなる傾向にある。
これはPCゲーム業界全体のパイが減少傾向にあるということと無縁では
なく、ある程度やむを得ないことではあるが・・・
この結果、現状ではユニークなゲームはコンシューマーに多くてPCには
少ないという、甚だ悲しい状況となってしまったのである。 「ガンパ
レードシリーズ」や「絢爛舞踊祭」、或いは「九龍妖魔学園記」などを
PCゲームで作ろうというメーカーは果たしてあるだろうか?
カンブリア紀には、ゲテモノとしか言いようのない、けったいな生物が爆
発的に発生した。 この多様性は決して生命のあだ花ではなく、その後の
地球上の生物進化に大きな役目を果たしたそうである。 進化においても
文化においても、画一は退化への一里塚、多様性は未来へと導く灯火だ。
私の数少ない自慢の種は、「ファントム」・「終末」・「シネマハウス」・
「TTB」・「スナッチャー」などを、他人の評価ではなく自分で発見し
て購入・プレイした、というものだ。 いずれも発売当初はそれほど話題
にもならず、その後口伝えにじわじわとその良さが理解されてきたという
作品である。 もっとも本当の所はあまり自慢もできない。 数知れぬ地
雷の山を踏み越え踏み越えして得たものだからだ。
願わくば、地雷を恐れぬ勇気あるプレーヤーが、この先増え続けてくれる
ことを・・・