映画「2001年宇宙の旅」は史上最高の映画である、と私は今でも信じている。 テーマは「生物と超越的存在」、或いは「知性とその知性を遙かに上回る超知性との関わり」とでも言えばいいのだろうか。 クラークの小説で言えば「幼年時代の終わり」ともかぶってくる内容だ。
クラークの小説版もSF史上希に見る大傑作で、映画と小説が共に傑作というのは滅多にない。 殆どの場合、小説の映画化はあまり芳しくない出来になるし、ノベライズとなれば駄作とほぼ相場が決まっている。
もっともこの「2001年宇宙の旅」は、小説の映画化でもなく、映画のノベライズでもないという特異なケースである。 映画(のシナリオ)と小説は同時進行に近く、キューブリックとクラークがシナリオについて議論を交わした後に、それに基づいてクラークは小説の進める(但し議論の通りではなく)という状態が続いたそうだ。(「失われた宇宙の旅2001」より)
この映画、解釈が多様にある、というか「なんだかよーわからん」という所が多い。 代表的なものは、モノリスに飛び込んだ後の数十分。 光の氾濫洪水に続いて中世的?な部屋が出現する。 振り返るとャbドがある。 そしてラストシーンは地球の俯瞰と空に浮かぶスターチャイルド。 ??? なんなんだこれは・・・
Halのもとい(私は反乱などしないぞ)、HALの反乱にしても映画では結局論理的な理由は示されないままだ。 その他首を捻る所は多々ある。 その点、小説では(全てではないが)、論理的な説明と解釈がなされていて、大分わかりやすくなっている。 このあたりは、小説の発表が映画の後ということも関係しているのかも知れない。
この映画のテーマは、一般的には「人類の進化と地球外生命の関係」などとされている。 しかし私には、少なくともクラークには「神の存在」という意識が強かったのではないかと思われる。 「幼年時代の終わり」とかぶる内容と書いたのも、そのためである。 「神」と書いて語弊があれば、「超超越的存在」としてもよい。 人類には永遠に手が届かぬ、超知性体との関わり。 そのようなものを感じるのだ。
キューブリック或いはタルコフスキーが、もし「幼年時代の終わり」を映画化したら、さぞ凄い映画になっていただろうと想像する。 だがキューブリックもクラークも既に彼岸へ行ってしまっている。 残念である。
ところでここ迄は、実は前振りなのだ。
クラークの小説版もSF史上希に見る大傑作で、映画と小説が共に傑作というのは滅多にない。 殆どの場合、小説の映画化はあまり芳しくない出来になるし、ノベライズとなれば駄作とほぼ相場が決まっている。
もっともこの「2001年宇宙の旅」は、小説の映画化でもなく、映画のノベライズでもないという特異なケースである。 映画(のシナリオ)と小説は同時進行に近く、キューブリックとクラークがシナリオについて議論を交わした後に、それに基づいてクラークは小説の進める(但し議論の通りではなく)という状態が続いたそうだ。(「失われた宇宙の旅2001」より)
この映画、解釈が多様にある、というか「なんだかよーわからん」という所が多い。 代表的なものは、モノリスに飛び込んだ後の数十分。 光の氾濫洪水に続いて中世的?な部屋が出現する。 振り返るとャbドがある。 そしてラストシーンは地球の俯瞰と空に浮かぶスターチャイルド。 ??? なんなんだこれは・・・
Halのもとい(私は反乱などしないぞ)、HALの反乱にしても映画では結局論理的な理由は示されないままだ。 その他首を捻る所は多々ある。 その点、小説では(全てではないが)、論理的な説明と解釈がなされていて、大分わかりやすくなっている。 このあたりは、小説の発表が映画の後ということも関係しているのかも知れない。
この映画のテーマは、一般的には「人類の進化と地球外生命の関係」などとされている。 しかし私には、少なくともクラークには「神の存在」という意識が強かったのではないかと思われる。 「幼年時代の終わり」とかぶる内容と書いたのも、そのためである。 「神」と書いて語弊があれば、「超超越的存在」としてもよい。 人類には永遠に手が届かぬ、超知性体との関わり。 そのようなものを感じるのだ。
キューブリック或いはタルコフスキーが、もし「幼年時代の終わり」を映画化したら、さぞ凄い映画になっていただろうと想像する。 だがキューブリックもクラークも既に彼岸へ行ってしまっている。 残念である。
ところでここ迄は、実は前振りなのだ。