柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

足並み

2008-02-09 08:44:30 | Weblog
新聞は、彼らは意図して連載ものとして定期的にやっていると言うのでしょうが読む方からは唐突という印象です、突然に戦争物(もちろんそれは軍国日本を非難するものです)の特集が一面を埋めます。しかも面白いことに複数紙に同時にです。今日は朝日と読売です。朝日はベルリンオリンピックを話題にしています。あのヒットラーがやったオリンピックです。「前畑頑張れ」の大会です。あの大会で日本はいくつか金メダルを獲っています、マラソンでも孫という人が金メダルを獲得したのですが、朝鮮の人で、君が代を聞くのが屈辱だったと後で述べたという事柄を取り上げています。何が言いたいのかは耳タコで改めてどうこうの感想はないのですが、まぁよくも懲りず飽きずに繰り返し繰り返し同じことをいうもんです(昨日書きました、世論形成の重要な手段です)、「朝鮮半島出身ながら日本統治下のため日の丸を付けて走った」と書きます。この五輪は1936年、昭和11年です。朝鮮併合したのは1910年、明治43年です、日露戦争の効果のひとつです。これは慰安婦問題、強制連行問題にも繋がる’いつもの言いがかり’ですが、朝鮮は日本だったんです。歴然たる事実です。どうして日の丸がいけないのか、です。屈辱と考えたのはこの人の自由です、愛国心に熱い人だったんでしょう、でもいかんせん他の人達がそうでもなかった。だからああいう形でしか「解放」されなかったんでしょう。あの時代の世界の空気はどうだったんですか?帝国主義、列強主義だと今の感覚で非難しても何んにもなりません。日清、日露戦争が侵略戦争?とんでもないこと。あの戦争なかりせば少なくとも朝鮮まで、あるいは北海道、本州の北半分とかまでロシアに分捕られていたでしょうに。そういう想像ができないんでしょうね。悪い事した悪い事した、です。ロシアがこのことを根に持っていたのは、つまりは当時の東進政策の目的が日本海の占領、日本の占領統合だったということなのですが、昭和20年8月9日、原爆投下を見定めてから満州になだれ込んで暴行陵辱虐殺略奪の限りを尽くしたあの行為に明らかでしょう。日露不可侵条約なんてのがあったんですよ、それを一方的に破棄して。まぁ、戦時のことです、その辺りはそれこそ当時の空気風潮に沿ってのこと、今の感覚ではわからぬことではありましょうが。でもこっち思想の連中のステレオタイプにはほとほと呆れます。でも、それが向こうさんの手口、もう勝手にせぇとこっちが手を引くのを待っているのでもあるのでしょうね。付き合わねばならぬというわけです、いちいちこうやって反論していく要があるというわけです。読売は振武寮という、福岡にあった特攻隊で出撃して目的果たせず帰還した「生ける軍神」を収容した施設の記事です。そこで帰還兵はなじられ誹られ人目を忍ぶ人生を強いられたという内容、もちろん特攻という戦術の異常さ、ひいては戦争の無体さを非難する内容です。名前は勇ましい寮ですが、収容された者にとっては地獄だったでしょうね。戦争映画、なかでも特攻を取り上げた映画は多くありますし、その中では必ず戦争に反対する者、死を望まない者、敗戦を予想する者を描きます、そういう者達も国思って死んでいったんだという流れです。そうじゃない者もいたんだということです。私もこういう事実を知ったときにびっくりした記憶があります、若い頃でしたが。この事実大切なことだと思いますが、どうして今なんだ?という違和感です。どういう足並み合わせなんでしょうね、聞いてみたいことです。
コメント
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