柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

逆算の強迫

2007-06-12 08:40:50 | Weblog
親が死んだあとからぼんやり思っていたことでしたが、齢五十に至ってより具体的に心にデンと居座ったものがあります。思っているほど時間が残っていないぞという焦燥感。逡巡する間などないぞという強迫感。この十年、そして次の十年。来し方に思いを馳せるに、十年二十年はまさに瞬く間の出来事、育てたという意識の薄いままに子は巣立ちましたし(いえ、女房も同じ感想などとは言いません、彼女のお陰で子が相当相応に育ち成長したのですから)、むろん目的意識を持っては生きてきたつもりですが、やらねばならぬ事をなんとか捌いてきただけのこと、振り返れば凹みだらけ、言うてることとやってることの齟齬など数限りなく、女房や子にはいやな思いも十分にさせてきて、それでもこの二十年二十五年はあっという間でした。それと同じだけが今後も残っていると勝手に想定して、歳を加えるに従って時が年齢の二乗三乗に比例するが如き速さで過ぎていく事実に鑑みて、ああ、ゆっくりしている暇などないぞ。いや、ゆっくりするぞと舵を切ればそれはそれで別の帆の張り方があるのでしょうが、始末の悪いことにまだいくつかやりたいことがある。どうしても逆算しての考えになる、すると今ぼんやりしてられないじゃないかということになる。いわばノルマ主義の悪循環、自縄自縛。一番嫌うことを自分でしている馬鹿さ。焦燥感と書きました。イライラしているわけではないのですが、走りながら考えろ!というせっつき感が一層強くなっているというわけです。逆算の強迫。掛け算割り算の罠についてはいつか書いたこと、分かっている筈なんですが我が事になるとこの体たらくです。ハッと気づいて焦る。階段飛ばしのようには物事は進みません、毎日毎日確実に歩を進めるばかりなのです、それも十分に心得ているはずなのですが、これでいいのか、何か足りぬのではないかと捜している。ううむ、こういう性分と言えばそれだけです。あなたは鬱病気質ですなんてね、はいそうですか。水平線しか見えなかったのに、しっかり果てが見えるようになってきたと譬えましょうか。ううむ、こんなこと考えていること自体、先の想定すら間違っている事の暗示なのでしょうか。おお、またまた焦ること・・
コメント
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