prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「バッシング」

2006年05月12日 | 映画
イラク人質事件で起こった日本国内での人質とその家族へのバッシングをモチーフにしているのは明白だが、冒頭に「これはフィクションであり、直接の人物や事件とは関係ありません」云々の字幕が出て、作中のセリフでも「例の事件」といった言われ方をしていて、直接的な言及は避けられている。

だから、なぜ一家が叩かれるのかというのが全然説明されないまま、バッシングによってヒロインと父親が職を失い、父親が自殺して、という八方陰惨な話をえんえんと見せられることになる。
何度も古いアパートの階段を昇ったり、小さなベッドに倒れこんだりといったアクションを繰り返すことで一種の様式化をしているので、ただ陰惨な話につきあわされるだけというわけでもないが、しかし相当に生理的にしんどかったというのが本音。

説明しないことで、日本人ひとりひとりにあたるところの観客に、その時自分はどうしていたか思い出させて考えさせる、という狙いなのかな、とも思う。
実際のところ、事件の時、まさかバッシングに参加はしなかったが、同情もあまりしなかったというのが本当のところ。バッシングされた元人質たちに対して、「弱者」という認識はなかったように思う。乱暴に言うと「ご立派なことをやっていられる結構なご身分」くらいか。何の落ち度もなくて理不尽な被害にあって、それで面白半分な攻撃をされている人間は、他にいくらもいるよ、とも。
あと、いかにも形式的だがやれやれとりあえず助かって良かったというのと。
映画そのものは現実とのアナロジーで語られるのを嫌っている感じだが。

なんでああいうバッシングが起こったかについての分析や評論もいくつか読んだが、日本人のナショナリズムの復活だとか、弱者への同情の欠落、長いものには巻かれろ意識といったよくある公式的なのが多くて、あまり釈然とするものはなかった。直感的になんか、違うなあと思っている。
自分の「正しさ」に疑問を持たない人間への違和感というか。
この映画でも主人公に対する批評的な見方が欠けている。

実際、バッシングする側の説得力ある描写抜きでバッシングというのが描けるのだろうか。
近しい人間が離れていく時ももう少し見かけは取り繕うのではないかと思って、元恋人や上司の冷たい態度もああ世の中イヤな奴が多いなあという程度の認識をあまり出ず、コレが日本人の分析だとか自分を鏡に写した姿だとは(たとえ傍から見てそうであっても)まず思えない。
(☆☆☆)



バッシング

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