prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「暴力脱獄」

2010年01月16日 | 映画
「エデンの東」のジェームス・ディーンの母親役だったジョー・ヴァン・フリートが、このcool hand Lukeではポール・ニューマンの母親役をやっている。
ところでこの二つには、親が男の兄弟の「育てわけ」というか、片方をかわいがってもう片方を疎んじてしまい、それが禍根を残しているというかなり大きな共通点があるのに、今回見てフリートとニューマンの対面シーンで気づいた。
ディーンはアクターズ・スタジオでのニューマンの先輩で、急死していなかったら「傷だらけの栄光」のニューマンの役をやるはずだったという。いわば兄弟分だ。

「エデンの東」みたいにドラマの根幹にどんとあるわけではないが、死期の迫った母子の会話で、母が可愛がっていたニューマン扮するルークは今では刑務所暮らし、悪いけれど疎んじてしまった弟のジョン(名前が出てくるだけ)につぐないに遺すものは全部遺す、と言い、ルークも同意する。

「エデンの東」のドラマのもとは「旧約聖書」のカインとアベルの兄弟の話であって、もともと理不尽で不平等な扱いをしたのは神だ。「エデンの東」のフリートはゴ清潔なクリスチャンである夫と対立し、家を出て行き売春宿を経営しているという、反抗者の役どころだった。息子のディーンに対して「あんたはあたしに似ている」というセリフもあった。
ここではフリート演じる母はルークにそれこそ神のごとくすべてを与え、そしてすべてを奪って逝くが、ルークは「エデン」でのフリート母を受け継ぐように反抗に突っ走る。もともとの不平等な父なる神は姿を見せず、反抗は行き着く対象を見出せない。

そう考えると、囚人たちが道路工事をしているのは、「道」を作っている図であることに気づく。
もうひとつ、ルークがゆで卵五十個も食べるというバカをやるのは、「命」のもとである卵をいくら詰め込んで妊婦のように腹を膨らませても、男には母のようには命は生めないということ。なぜ「卵」なのかも偶然ではない。

ユングは「ヨブへの答え」でヨブに対する理不尽な仕打ちによってあらわになった残忍な原始神を、恵み深く「人間化」するためにキリストの犠牲の意味があると説いたが、卵の食べきったあとの両手を広げたルークを上から見下ろした姿はキリストそのものだ。

ヨハネ福音書に「言葉は神であった」とあるが、ジョージ・ケネディ扮する初めはルークをいたぶっていた元牢名主みたいな囚人が字が読めなくてエロ本を朗読してもらっていたのに、ラストではルークの最後を伝える言葉を担う役割になるのは、たとえばキリストに対するパウロにあたるのだろう。
「字が読めない」という設定も、思いつきではない。

だからラストはカメラが舞い上がった後、女たちに囲まれているというごく俗な形で見せているけれど「天国」にいるルークでしめくくられるのだろう。