prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「女相続人」

2009年10月29日 | 映画

娘のお産の時に愛妻が死んだため、妻の美しさや才能を成長した娘に求めて見つけられないでいる父親像が怖い。
存在しないがためにかなり亡妻を美化しているのかもしれず、おそらくあるだろう娘の美点をことごとく無視してしまっている。自己肯定感を持てず引っ込み思案のまま成長した娘に言い寄ってくる男は、だから金目当てとしか思わない。
(余談ながら、日本の子供というのは諸国の内で一番自己肯定感が弱い。この人間としての基本的な自信がないと、他人と関わりをもてない)。

父親が初めのうち口には出さないでいるが娘に対しておまえは何一ついいところがないと本気で思っているのが、モンゴメリー・クリフトの高等遊民的求婚者の登場とともに露わになってくる展開と、上流階級のとりすました態度から、娘の幸せを「望まない」父親の酷薄さをのぞかせてくるラルフ・リチャードソンの演技は圧巻。

もちろんこれで二度目のオスカーを受賞したオリヴィア・デ・ハヴィランド(1916年 東京生まれ 存命中)の前半のおどおどした感じから、父親がまったく自分を愛していないのを知って心を鎧っていく変化を見せる演技も鬼気迫る。

成り行きのように駆け落ちを言い出すヒロインに、結婚したらいずれきっと父上も許してくれると常識的なことを言うクリフトが、「父が許しても、私は許さない」と言われて、一瞬怯えが走るところがすごい。この後、クリフトは駆け落ち用の馬車を探してくるといって、結局そのまま帰ってこない。後で言い訳のような理屈を並べるが、怖くなったというのが本当ではないか。

ウィリアム・ワイラーは、このほとんどベルイマン作品なみの酷烈な内容を、装置の構造を巧みに生かした演出で綴る。
たとえば、ヒロインの三階にある居室(このこと自体、引っ込み思案を形にしている)が二階とつながる階段は、一階と二階の間の踊り場をつなぐ階段のほぼ延長上にある。
だからクリフトがやってこないのを知ったヒロインが一階から二階に上ってくるのを踊り場までは正面から捉え、それから背を向けて二階に行くだけで終わらず、さらに念を押すように三階へと懊悩を背負いながら上っていくのを捉えたワンカットは、すでに歴史的名演出として名高い。

さらに大きな扉や鏡の反射などにも、芝居の醍醐味とそれを映像に分割する演出手腕を全編にわたってみなぎらせている。まことに映画演出の教科書(事実アメリカの大学の教材にもよく取り上げられるという)。
(☆☆☆☆)