連ドラの
『てるてる家族』(再放送)と
『とと姉ちゃん』の両方が
今日で最終回となった。
『てるてる』の方は
ミュージカル仕立ての演出が
たびたびあり、フィナーレには
出演者全員の顔見世となって
なかなかモダンな舞台風であった。
『とと姉』は
ヨッちゃんが
グッと老けメイクで
時代を重ねた雰囲気を
演出していた。
月曜からは、
また『ごちそうさん』の再放送と
『べっぴんさん』という
新作が始まる。
10/1からの路線改正で
ポストにバスの時刻表が入っていた。
ちょうど来週の土曜日に
バスで駅まで向かおうと
思っていたので、
バス停まで時刻表を
見に行かずともすんだ。
思えば、バイパス側のバスは
一度も乗ったことがなく、
もっぱら鳥谷野街道の
「二つ石」が最寄の停車場であった。
フミとナツは附属小まで
バス通だったが、
小1のナツが朝、
バスが満員でスルーされた時に
泣きながら呆然としていた処に、
中学生のフミがやってきて
フォローしてくれた
ということもあった。
豊洲問題をニュースで聞くにつけ、
かつて、河合先生が指摘していた
「中空構造社会」の問題点が
またまた露わになった。
これは日本人の基本的気質であって、
神話の時代まで遡るので、
一朝一夕に欧米型の
「中心統合社会」には
変わらないのであろう。
掻い摘んで言うと、
『古事記』に登場する三神
タカミムスビ・
アメノミナカヌシ・
カミムスビのうち、
「天の御中主」という
センターにいる神は名ばかりで
全く何の活躍も語られない。
同様に、三貴神と言われる
アマテラス・
ツクヨミ・
スサノオのうちの
センターにいるツクヨミもまた
ほとんど無為の神然としている。
また、
ホデリノミコト(海幸彦)・
ホスセリノミコト・
ホオリノミコト(山幸彦)という
トライアッドでも
センターのホスセリが
語られていないという奇妙な事実に
河合先生は着目して、
日本人の基本気質には
ドーナツのように中心を「空」にして
バランスを取るという
独自のメンタリティ(精神性)を見出して
「中空均衡型」と命名した。
これは欧米型の
センターに強力な求心力のある
神やリーダーを有する
「中心統合型」と対置するモデルである。
遊牧民族型と農耕民族型の違いや
一神教と多神教の違いも
これには絡んでいるようである。
先日の教員研修会でも、
「父性性」について講義したが、
その際、メリメの短篇
『マテオファルコーネ』を例にあげ、
信義を破った幼い我が子を
死を持って罰した厳父の話と、
繁殖期には優秀な雄羊一頭のみを残して
他は全部殺処分する、
という例を揚げて、
母性社会に生きる日本人には
理解し難いことなどを話した。
一神教では、
神との契約を守るものだけが
愛され祝福されるのである。
母性社会は
「どんな子でもウチの子であれば愛する」
という原理で、
これは、終身雇用制や国民皆保健制に
反映されてきた。
しかし、それは
中空構造社会と親和性があり、
いろんな組織や共同体で
「傘連判」というのがあったように
直線的に判子を押すと
先頭の者から責任を問われるので、
丸く傘のように判を押す
という責任分配(逃れ?)をする
伝等が古くからあった。
これは聖徳太子の
「和をもって尊しとなす」の精神を
歪めて護送船団方式として
やってきたのである。
天候不順や害虫に襲われると
運命共同体的にやられてしまう
農耕民族社会の特質と、
野にも畑にも神が宿るという
アニミズム的多神教社会は
プラスの側面では組織や共同体を
それによって護ってきた。
しかし
「二つよいことさてないものよ」で、
マイナスの側面には、
「察することを重んじる」
「出る釘は打たれる」
という文化が過剰に働くと
母性社会の病理や
中空構造の病理が生じることは、
軍国時代の軍の暴走や
原発事故での無責任性、
そして、今回の「豊洲問題」でも
またしても露呈された。
想像するに、
おおかた、強権的な石原知事の
「気まぐれな一言」を周囲の役人が
“お察しして”“考えなしで”
専門家の意見との均衡を図って
地下を「中空」にしたのであろうか。
まさしく、象徴的な
「中空均衡モデル」である。
明確な責任者が不在で、
結果、だーれも責任を取るものがいない、
という“植木等”の無責任社会というのが
中空構造日本の致命的欠陥なのである。
そもそも
象徴天皇制自体も
センター的ポジションの如くにありながら
何の権限もない、
という中空構造にある。
『てるてる家族』(再放送)と
『とと姉ちゃん』の両方が
今日で最終回となった。
『てるてる』の方は
ミュージカル仕立ての演出が
たびたびあり、フィナーレには
出演者全員の顔見世となって
なかなかモダンな舞台風であった。
『とと姉』は
ヨッちゃんが
グッと老けメイクで
時代を重ねた雰囲気を
演出していた。
月曜からは、
また『ごちそうさん』の再放送と
『べっぴんさん』という
新作が始まる。
10/1からの路線改正で
ポストにバスの時刻表が入っていた。
ちょうど来週の土曜日に
バスで駅まで向かおうと
思っていたので、
バス停まで時刻表を
見に行かずともすんだ。
思えば、バイパス側のバスは
一度も乗ったことがなく、
もっぱら鳥谷野街道の
「二つ石」が最寄の停車場であった。
フミとナツは附属小まで
バス通だったが、
小1のナツが朝、
バスが満員でスルーされた時に
泣きながら呆然としていた処に、
中学生のフミがやってきて
フォローしてくれた
ということもあった。
豊洲問題をニュースで聞くにつけ、
かつて、河合先生が指摘していた
「中空構造社会」の問題点が
またまた露わになった。
これは日本人の基本的気質であって、
神話の時代まで遡るので、
一朝一夕に欧米型の
「中心統合社会」には
変わらないのであろう。
掻い摘んで言うと、
『古事記』に登場する三神
タカミムスビ・
アメノミナカヌシ・
カミムスビのうち、
「天の御中主」という
センターにいる神は名ばかりで
全く何の活躍も語られない。
同様に、三貴神と言われる
アマテラス・
ツクヨミ・
スサノオのうちの
センターにいるツクヨミもまた
ほとんど無為の神然としている。
また、
ホデリノミコト(海幸彦)・
ホスセリノミコト・
ホオリノミコト(山幸彦)という
トライアッドでも
センターのホスセリが
語られていないという奇妙な事実に
河合先生は着目して、
日本人の基本気質には
ドーナツのように中心を「空」にして
バランスを取るという
独自のメンタリティ(精神性)を見出して
「中空均衡型」と命名した。
これは欧米型の
センターに強力な求心力のある
神やリーダーを有する
「中心統合型」と対置するモデルである。
遊牧民族型と農耕民族型の違いや
一神教と多神教の違いも
これには絡んでいるようである。
先日の教員研修会でも、
「父性性」について講義したが、
その際、メリメの短篇
『マテオファルコーネ』を例にあげ、
信義を破った幼い我が子を
死を持って罰した厳父の話と、
繁殖期には優秀な雄羊一頭のみを残して
他は全部殺処分する、
という例を揚げて、
母性社会に生きる日本人には
理解し難いことなどを話した。
一神教では、
神との契約を守るものだけが
愛され祝福されるのである。
母性社会は
「どんな子でもウチの子であれば愛する」
という原理で、
これは、終身雇用制や国民皆保健制に
反映されてきた。
しかし、それは
中空構造社会と親和性があり、
いろんな組織や共同体で
「傘連判」というのがあったように
直線的に判子を押すと
先頭の者から責任を問われるので、
丸く傘のように判を押す
という責任分配(逃れ?)をする
伝等が古くからあった。
これは聖徳太子の
「和をもって尊しとなす」の精神を
歪めて護送船団方式として
やってきたのである。
天候不順や害虫に襲われると
運命共同体的にやられてしまう
農耕民族社会の特質と、
野にも畑にも神が宿るという
アニミズム的多神教社会は
プラスの側面では組織や共同体を
それによって護ってきた。
しかし
「二つよいことさてないものよ」で、
マイナスの側面には、
「察することを重んじる」
「出る釘は打たれる」
という文化が過剰に働くと
母性社会の病理や
中空構造の病理が生じることは、
軍国時代の軍の暴走や
原発事故での無責任性、
そして、今回の「豊洲問題」でも
またしても露呈された。
想像するに、
おおかた、強権的な石原知事の
「気まぐれな一言」を周囲の役人が
“お察しして”“考えなしで”
専門家の意見との均衡を図って
地下を「中空」にしたのであろうか。
まさしく、象徴的な
「中空均衡モデル」である。
明確な責任者が不在で、
結果、だーれも責任を取るものがいない、
という“植木等”の無責任社会というのが
中空構造日本の致命的欠陥なのである。
そもそも
象徴天皇制自体も
センター的ポジションの如くにありながら
何の権限もない、
という中空構造にある。
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