2004年から
足掛け18年も
毎日続けてきた
『ティーカップ』サイトが
1/8で「サービス終了する」
という告知が出て、
ブログ仲間のM共々、
「参ったなぁ・・・」
と、愚痴をこぼし合っていた。
サイト閉鎖にあたり、
「goo blog」への移転が
公式に推奨されているので、
夏休み頃には、その手続きを
せねばなるまい。
最近では、
フェイスブックの方が
主流になっているが、
実名サイトなのと、
GAFAに与するのを良しとしない
ビジターも多くいられるので、
やはり「goo blog」との
二本立てでいくよりない。
今朝、目覚めたら、
寝室の枕元から
網戸の外に
二匹の蛾が
継がって止まっていた。
昨晩は、
強風注意報が出るほどの
大風の夜だったので、
羽休めを探し求めて
我が家の網戸を
アベックでグリップしたのだろう。
内側からポンと弾けば、
驚いて逃げるのだろうが、
なんだか、夫婦か恋人どうし
のような気もして、
飛び立つまでは
そっとしといてやろうと思った。
なんだか、変な夢を
沢山見た一晩だったので、
朝一の蛾の到来が気にかかり、
『シンボル事典』でいろいろと
象意をしらべてみた。
すると、
イモムシから蛹化、羽化する
というので「変化」
「死と再生」の意味がある、
という。
もひとつは、
正の走光性があり、
光りに寄って来る性質があり、
時折、焚火なぞにも
誤って投身して自滅する
ということがあり、
「熱中とその危険性」
という象意もあるそうな。
そこから、
現在の我が身の事を
つらつら考えてみるに、
そろそろ
『リュート・マラソン』の熱も
冷めつつあるのか、
楽しさが薄らいできた感がある。
7週間も馬鹿みたいに
毎日続けてきたのだから、
飽きるのも当然だが、
かといって、まだまだ、
リュートという奥深い古楽器を
ギターと同様に極めた感からは
ほど遠い。
まだ、だいぶ解ってきた、
という段階である。
そして、
愛器のギター破損事故来、
ずっと爪を切って、
指頭奏法を続けてきて、
その可能性や新奇性に
心がオモシロがる面もあった。
爪弾きには出来ない、
メローでマイルドな音色が
ギターからも出せて
目の覚めるような発見だった。
花粉症のクスリ
「三点セット」である(笑)。
これプラス、
やや喘息チックで、
気管支あたりが
イライラして
咳もでるので、
喘息吸入剤の
「シムビコート」も
時折、使っている。
これらの薬剤で、
なんとか、不快な症状が
緩和され、精神的に病むのを
防いでくれている。
江戸時代末期に
金光教祖は、
「祈りくすれ(薬)にせよ。
くすれ祈りにすな」
という御理解(御教え)を
説いている。
その一方では、
貧しい農民の参拝者に、
「その方も薬を買う費用が要ろう」
と、クスリの有用性を認めている。
これは、
対機説法的なもので、
相手を見て、
気養いになるなら煙草も
悪くなかろう・・・
と言いながら、別の者には、
その方はやめた方がいい、
と説いたりしている。
自分は、
まだ自意識が確立していない、
2才から重症喘息だったので、
それこそ数十回も入院し、
クスリ漬けの"古漬け"人生である(笑)。
なので、
爾来、呼吸困難という
死ぬほどの苦しみと恐怖から
瞬時に解放してくれる
クスリの力、有り難さは
骨身に滲みている。
かといって、
「クリス信者」にはなるまい、
という思いもある。
でも、それを呑まずば、
自殺してしまう・・・
というようなクライエントの
クライシス・インターベンション
(危機的介入)
では、躊躇わずに
「薬物療法」を指示している。
サイエンティスト的な思考で言えば、
クスリも食べ物も
CHOや諸々の元素に
還元できるからである。
ご飯のCHOはいいが、
クスリのCHOはダメ、
というのは
全くのナンセンスである(笑)。
そのような
クスリを嫌厭、忌み嫌う人も、
また、アンチ薬「信者」なのだ。
そのような、
非科学的な迷妄を
「センチメンタル・バリア」
と揶揄しながら
啓蒙するのも、
サイコ・セラピストの仕事なのである。
散歩コースにあった
近所のパソコン教室が潰れて、
価格破壊「理容/美容」の嚆矢、
『プラージュ』ができた。
開店日の開店時間に、
散歩をかねて出向いたら、
8時15分から髪切りにくる
物好きもないとみえて、
第一号客となった。
そのせいか、
店中のスタッフから
記念日効果で
妙に厚遇された(笑)。
これまでは、
散歩コースとは反対側にある
『フレッシュ』に行ってたが、
こっちは60才以上200円引きで
カット・顔剃り1100円という
最安価であったので、
これからは、こっちに
乗り換えである(笑)。
御多分に洩れず、
帰りには、粗品をもらって、
スタッフ一同から
「ありがとうございました」
と送り出された。
散歩コースの
濁川の土手が、
洪水を機に、
自然道から舗装になった。
これまでは、
草掻き分け歩いてたが、
舗装になったら
歩きやすいのはいいが、
その味気ないことよ。
狐狸庵先生の箴言を
思い出してしまった。
波打ち際の砂浜は
歩きにくいものだが
振り返ると
そこには足跡がくっきり残る
舗装路(みち)は
歩きやすいが
振り返っても
そこには何も残ってはない
我が身の上に降りかかってる
「コロナ・戦争・地震」
「叔父の急逝・愛器全損」
「花粉症・体調不良」
などを
艱難辛苦とするならば、
これもまた
「人生深生き」
とするための
セルフ・アレンジメントなのかもしれぬ。
今朝の窓辺の
「番う蛾」の象意のように、
「死と再生」のイニシェート
(通過儀礼を体験)させられている
最中なのかもしれず、
そのトンネルを抜けると、
あの明るい景色に
心が晴れるのだろう、
と信じて「先を楽しみ」に
暮らそうと思っている。
今年は、まだ、何処にも
フキノト・ハンティングに
出かけられず、
従妹のミキティにもらったもので
フードプロセッサーを用いて
フキ味噌を作った。
贅沢にも
「蜂蜜/黒糖/甘酒/味醂」
という"甘味四兄弟"(笑)を
加えて撹拌し、
フライパンで火入れした。
甘辛加減と
香りがウェルバランスに
仕上がったので、
カミさんも白飯を炊いて
「おいしい、おいしい」
と、ご満悦だった(笑)。
31日まで、
ツタヤのワゴンセールで
CD80%オフなので、
毎日、散歩のたびに
何枚かずつ買ってきている。
もう、ワゴンのクラシックは
ほとんど買いつくした(笑)。
チャイコフスキーとの
カップリングされてた
グレチャニノフという作曲家を
知らなかったので
ググってみたら、
リムスキー・コルサコフの
お弟子さんだった。
「liturgy(リタジイ)」
というのが、
キリスト教の「典礼」を
意味するというのも
勉強になった。
「典礼音楽」とは、
宗教的儀式に用いられるもので、
ローマ・カトリック教会では
16世紀来、用いられてるという。
礼拝に使用される音楽としては、
ミサ曲、レクイエム、
聖務日課の詩篇、
カンティクム、モテト
などがある。
ギターやリュートで
弾かれるものとしては、
レクイエムやカンティクムといった
「リタジイ」がある。
足掛け18年も
毎日続けてきた
『ティーカップ』サイトが
1/8で「サービス終了する」
という告知が出て、
ブログ仲間のM共々、
「参ったなぁ・・・」
と、愚痴をこぼし合っていた。
サイト閉鎖にあたり、
「goo blog」への移転が
公式に推奨されているので、
夏休み頃には、その手続きを
せねばなるまい。
最近では、
フェイスブックの方が
主流になっているが、
実名サイトなのと、
GAFAに与するのを良しとしない
ビジターも多くいられるので、
やはり「goo blog」との
二本立てでいくよりない。
今朝、目覚めたら、
寝室の枕元から
網戸の外に
二匹の蛾が
継がって止まっていた。
昨晩は、
強風注意報が出るほどの
大風の夜だったので、
羽休めを探し求めて
我が家の網戸を
アベックでグリップしたのだろう。
内側からポンと弾けば、
驚いて逃げるのだろうが、
なんだか、夫婦か恋人どうし
のような気もして、
飛び立つまでは
そっとしといてやろうと思った。
なんだか、変な夢を
沢山見た一晩だったので、
朝一の蛾の到来が気にかかり、
『シンボル事典』でいろいろと
象意をしらべてみた。
すると、
イモムシから蛹化、羽化する
というので「変化」
「死と再生」の意味がある、
という。
もひとつは、
正の走光性があり、
光りに寄って来る性質があり、
時折、焚火なぞにも
誤って投身して自滅する
ということがあり、
「熱中とその危険性」
という象意もあるそうな。
そこから、
現在の我が身の事を
つらつら考えてみるに、
そろそろ
『リュート・マラソン』の熱も
冷めつつあるのか、
楽しさが薄らいできた感がある。
7週間も馬鹿みたいに
毎日続けてきたのだから、
飽きるのも当然だが、
かといって、まだまだ、
リュートという奥深い古楽器を
ギターと同様に極めた感からは
ほど遠い。
まだ、だいぶ解ってきた、
という段階である。
そして、
愛器のギター破損事故来、
ずっと爪を切って、
指頭奏法を続けてきて、
その可能性や新奇性に
心がオモシロがる面もあった。
爪弾きには出来ない、
メローでマイルドな音色が
ギターからも出せて
目の覚めるような発見だった。
花粉症のクスリ
「三点セット」である(笑)。
これプラス、
やや喘息チックで、
気管支あたりが
イライラして
咳もでるので、
喘息吸入剤の
「シムビコート」も
時折、使っている。
これらの薬剤で、
なんとか、不快な症状が
緩和され、精神的に病むのを
防いでくれている。
江戸時代末期に
金光教祖は、
「祈りくすれ(薬)にせよ。
くすれ祈りにすな」
という御理解(御教え)を
説いている。
その一方では、
貧しい農民の参拝者に、
「その方も薬を買う費用が要ろう」
と、クスリの有用性を認めている。
これは、
対機説法的なもので、
相手を見て、
気養いになるなら煙草も
悪くなかろう・・・
と言いながら、別の者には、
その方はやめた方がいい、
と説いたりしている。
自分は、
まだ自意識が確立していない、
2才から重症喘息だったので、
それこそ数十回も入院し、
クスリ漬けの"古漬け"人生である(笑)。
なので、
爾来、呼吸困難という
死ぬほどの苦しみと恐怖から
瞬時に解放してくれる
クスリの力、有り難さは
骨身に滲みている。
かといって、
「クリス信者」にはなるまい、
という思いもある。
でも、それを呑まずば、
自殺してしまう・・・
というようなクライエントの
クライシス・インターベンション
(危機的介入)
では、躊躇わずに
「薬物療法」を指示している。
サイエンティスト的な思考で言えば、
クスリも食べ物も
CHOや諸々の元素に
還元できるからである。
ご飯のCHOはいいが、
クスリのCHOはダメ、
というのは
全くのナンセンスである(笑)。
そのような
クスリを嫌厭、忌み嫌う人も、
また、アンチ薬「信者」なのだ。
そのような、
非科学的な迷妄を
「センチメンタル・バリア」
と揶揄しながら
啓蒙するのも、
サイコ・セラピストの仕事なのである。
散歩コースにあった
近所のパソコン教室が潰れて、
価格破壊「理容/美容」の嚆矢、
『プラージュ』ができた。
開店日の開店時間に、
散歩をかねて出向いたら、
8時15分から髪切りにくる
物好きもないとみえて、
第一号客となった。
そのせいか、
店中のスタッフから
記念日効果で
妙に厚遇された(笑)。
これまでは、
散歩コースとは反対側にある
『フレッシュ』に行ってたが、
こっちは60才以上200円引きで
カット・顔剃り1100円という
最安価であったので、
これからは、こっちに
乗り換えである(笑)。
御多分に洩れず、
帰りには、粗品をもらって、
スタッフ一同から
「ありがとうございました」
と送り出された。
散歩コースの
濁川の土手が、
洪水を機に、
自然道から舗装になった。
これまでは、
草掻き分け歩いてたが、
舗装になったら
歩きやすいのはいいが、
その味気ないことよ。
狐狸庵先生の箴言を
思い出してしまった。
波打ち際の砂浜は
歩きにくいものだが
振り返ると
そこには足跡がくっきり残る
舗装路(みち)は
歩きやすいが
振り返っても
そこには何も残ってはない
我が身の上に降りかかってる
「コロナ・戦争・地震」
「叔父の急逝・愛器全損」
「花粉症・体調不良」
などを
艱難辛苦とするならば、
これもまた
「人生深生き」
とするための
セルフ・アレンジメントなのかもしれぬ。
今朝の窓辺の
「番う蛾」の象意のように、
「死と再生」のイニシェート
(通過儀礼を体験)させられている
最中なのかもしれず、
そのトンネルを抜けると、
あの明るい景色に
心が晴れるのだろう、
と信じて「先を楽しみ」に
暮らそうと思っている。
今年は、まだ、何処にも
フキノト・ハンティングに
出かけられず、
従妹のミキティにもらったもので
フードプロセッサーを用いて
フキ味噌を作った。
贅沢にも
「蜂蜜/黒糖/甘酒/味醂」
という"甘味四兄弟"(笑)を
加えて撹拌し、
フライパンで火入れした。
甘辛加減と
香りがウェルバランスに
仕上がったので、
カミさんも白飯を炊いて
「おいしい、おいしい」
と、ご満悦だった(笑)。
31日まで、
ツタヤのワゴンセールで
CD80%オフなので、
毎日、散歩のたびに
何枚かずつ買ってきている。
もう、ワゴンのクラシックは
ほとんど買いつくした(笑)。
チャイコフスキーとの
カップリングされてた
グレチャニノフという作曲家を
知らなかったので
ググってみたら、
リムスキー・コルサコフの
お弟子さんだった。
「liturgy(リタジイ)」
というのが、
キリスト教の「典礼」を
意味するというのも
勉強になった。
「典礼音楽」とは、
宗教的儀式に用いられるもので、
ローマ・カトリック教会では
16世紀来、用いられてるという。
礼拝に使用される音楽としては、
ミサ曲、レクイエム、
聖務日課の詩篇、
カンティクム、モテト
などがある。
ギターやリュートで
弾かれるものとしては、
レクイエムやカンティクムといった
「リタジイ」がある。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます