『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

三冠へのチャレンジ!!

2021-09-13 07:31:00 | 藤井 聡太
きのうも
ほぼ一日「寝養生」していた。

まるまる二日間も
伏せっていたので、
今朝方はカラダが
凝り凝りして痛むので、
朝の4時から1時間ほど
マッサージ機でほぐした。

そしたら、
血の巡りがよくなったのか、
また眠気が出て
7時まで珍しく
二度寝が出来た。

それでも、
まだ節々の痛みや
頭痛がするので
風邪ッ気が抜けていないようだ。

オナカは
普通食に戻しても
大丈夫のようである。

今日、明日と
学校勤務なので、
なんとか
仕事をしながら
緊張感と充足感で
風邪が抜けてくれたら
幸いである。




今日は、
9時からソーちゃんの
叡王戦の決勝がある。

強敵トヨピーと
2-2で来て
勝てば「三冠」という
大一番である。

職場でも
仕事の合間にスマホで
観戦しようと思う。

以前は、途中で
バッテリー切れになったので、
今日は、しっかりと
充電コードを持参するつもりである(笑)。



************

『魂理学試論』10

「唯脳論」


 養老先生の初期のご著書である『唯脳論』を以前から何度も再読している。
 
 今回も、この『試論』を書くに当たって、また再々読してみた。

 そして、唯脳論的な考えというのも、ひとつの試論に含めねばと思った。

「心というものが、どうして物(脳)に宿ったか?」
 という一般的な問いに、養老先生は、
「心臓という『構造』は、循環という『機能』があるが、同様に、脳は構造であり『こころ』という意識活動はその機能に過ぎない」
 と説明されていた。

 解剖学的には、脳は決して他の臓器より上位で高等な特殊な器官ではなく、個体を形成する一臓器というのである。

 解剖学が発達する以前に、宗教や哲学が「心身二元論」について問題としてきた為、いつの間にか「こころ=たましい」のような錯覚が生じたのかもしれない。

 唯脳論に従えば、脳という臓器の意識という働きが「たましい」というものと錯覚されている、というのである。

 自然科学に遅れて発達してきた心理学にしても、知覚・認知・判断・記憶・情動反応など、測定可能で記述可能な心的現象を「こころ」の総体としてきた。

 そこには、何処にも「たましい」という要素はない。



 近年、注目された臨死体験ですら、脳神経外科医のペンフィールドらの報告で、側頭葉にあるシルヴィウス裂という溝に電気刺激を与えると、それと同じ体験を被験者が感ずるという。

 それは、すなわち、脳内に組み込まれているプログラムというのである。
 ただ、それが、どうして、臨死的状況でのみ機能するのかは、理由が解らないという。
 一つの解釈としては、脳内モルヒネのエンドルフィンなども関与して、死の恐怖や苦痛を緩和させるためではないか、という。
 宗教者ならば、それこそが「神の恩寵」と言うだろう(笑)。



 ノーベル賞受賞者の利根川博士も、脳科学の視点から、死後生や「たましい」の存在をあり得ないとはっきり否定している。

 
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