イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
だれが私たちに敵対できるでしょう
「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」(ローマ8:31-35)
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パウロは上の聖書箇所で「だれが私たちに敵対できるでしょう」と書いている一方で、イエスは弟子たちに言っている。
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」(マタイ10:34-36)
イエスを通して信仰を与えられると、このように周り中が敵に回る。彼らにとって私たちが異質な者だからであり、死者たちの中で生きる者だからである。
だから彼らは私たちを憎しみ敵視はするが、パウロが言うとおり、私たちに敵対できるような存在ではない。
なぜなら、私たちは、御子を介した御父との関係性の中にあるのに対して、彼らは死者たちの関係性の中にあるからであり、端的に言うと異なる世界にいるからである。
訴えられても迫害されてもキリストという私たちの心棒は一体であるから、この心棒から引き離されようがない。遠藤周作の小説に出てくる宣教師のように迫害に屈しても、私たちからこのキリストという心棒は取り去られないのであるから、死人の彼らは私たちには無力なのだ。
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健やかな一日をお祈りします!
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神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」(ローマ8:31-35)
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パウロは上の聖書箇所で「だれが私たちに敵対できるでしょう」と書いている一方で、イエスは弟子たちに言っている。
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」(マタイ10:34-36)
イエスを通して信仰を与えられると、このように周り中が敵に回る。彼らにとって私たちが異質な者だからであり、死者たちの中で生きる者だからである。
だから彼らは私たちを憎しみ敵視はするが、パウロが言うとおり、私たちに敵対できるような存在ではない。
なぜなら、私たちは、御子を介した御父との関係性の中にあるのに対して、彼らは死者たちの関係性の中にあるからであり、端的に言うと異なる世界にいるからである。
訴えられても迫害されてもキリストという私たちの心棒は一体であるから、この心棒から引き離されようがない。遠藤周作の小説に出てくる宣教師のように迫害に屈しても、私たちからこのキリストという心棒は取り去られないのであるから、死人の彼らは私たちには無力なのだ。
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