知者であると言いながら愚かな者

 「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」(ローマ1:18-23)

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 もし、神の存在を理詰めで証明するとしたら、どのような筋道でならうまくいくだろうか。
 自分なら、書き始めでつまづいてしまうだろう。一行も書けない。
 頭とか観念だけで神を認めようとするのは、非常に無理がある。
 それらとは違うところ、心とか魂が、神を求め神と出会うのである。

 近代以降、人々は頭でっかちになってしまった。頭ですべてを統御できると思っている。
 この頭は、自分の認識の外にある神を認めようとしない。
 しかしゲーテは、1772年という時点で既に、「頭がすべてだと考えている人間の哀れさよ!」と書いている。
 頭が全てになると、その人の中で、頭と心(魂)とが分離してしまう。
 熱エネルギーを自在に用いて巨大な機関車を動かせても、自分の気持ち一つ分からなくなる。
 それが「知者であると言いながら、愚かな者」ということである。
 まったく愚かしい。これは我が身を省みてもそう思う。

 この、分離してしまった頭と心との調和を取り戻すには、どうしたらいいだろうか。
 絶対的な存在を認めることは、とても大切なことだ。
 頭では認識できないが全人格的に認めざるを得ない、そういうことがある。
 それがイエスとの出会いなのである。
 極刑に死んだが復活した赦し主イエスとの出会いによって、この絶対的存在を認めざるを得なくなり、その結果、調和が取り戻される。
 このときに、頭が絶対者なのではないことに、否応なしに気付かされるのである。実際、この出会いに頭は何の役にも立たなかった。

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[一版]2017年 9月17日
[二版]2019年 8月14日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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