信仰による義

 「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3:31)

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 もしも行ないによって義を確立するのであれば、割礼をしないことは確かに不義だ。分かりがいい。
 では、割礼をしないことは、律法を確立するであろうか、それともそれを貶めるだろうか。
 これは観念だけでは分からなくなってくる。

 行いによる義というのは、自力で義をつかみ取ろうとするものであるが、一方、信仰による義はそうではない。
 信仰というのは自分が獲得するものではなく、イエスによって信じさせられるのである。
 このとき律法は正に養育係であり、自力ではどうやっても神の基準に達することができず、罪人であると認めざるを得ず、そうして更に罪に罪を重ねるほかない。
 そうして極刑に苦しみ続けるその果てに、復活のイエスが私たちに出会ってくださるのである。
 あのイエスの十字架への道は、私たちがこうして通り抜けるためのものだったのだ。

 割礼をしない、というか、割礼をしようとしてできず律法を守れないところには、このように罪意識が発生する。
 これこそ律法の目的なのであるから、律法を守らないことがイエスとの出会いに及ぶことは大いにあるのである。こうして私たちの中で、律法は確立されたのだ。
 一方、自分は律法を守っている、そう思っている人には、この罪意識が生じる余地がない。
 ここが両者の決定的な違いなのである。

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・ロマ書を続けるつもりでしたが、3章でいったんやめて、次回からはしばらくアトランダムに取り上げようと思います。
・このブログの下の方にある検索窓に「ローマ」とか「ローマ6:」などと入れると、ロマ書やロマ書6章について今まで書いたものを検索することができますのでご参考までに。


 健やかな一日をお祈りします!

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