なにゆえにイエスを喜ぶのだろう

 「そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
 こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。
 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。」(マタイ21:9-11)

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 イエスのイスラエル入城。

 イエスは群集から、あらんばかりの祝福を受けている。
 ただ、その祝福は、イエスこそローマの支配から解放してくれるだろう、というものであり、それでイエスに「ホサナ」と叫んでいる。

 一方イエスは大分前から、「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(マタイ16:21)。
 イエスは、多くの苦しみを受けて十字架に架かるために、エルサレムに入る。
 それは、人間の肉の罪を処罰するため、そして復活を通して、そのことを信じる人間が罪赦されるためである。

 群集とイエスとの間の、このあまりのギャップ。
 群衆達の、徹底した無理解。
 だから気付くと、この群集はのちに「十字架につけろ」(マタイ27:22)などと、真逆のことをイエスに向かって叫びだす。

 そうすると、なにゆえにイエスを喜ぶのだろうか。
 一体どのような期待を、イエスに持つのだろう。
 ローマ支配からの解放のような全くの筋違いを、私たちは求めてはいないだろうか。

 しかし、たとえそうであっても、恵みによって復活のイエスに出会うと、なにゆえにイエスを喜ぶのか、イエスに真に期待するものが何なのかが、瞬時にしてはっきりわかるようになる。
 だから最初はみな、上の群集と同じなのだ。

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[一版]2010年 7月26日
[二版]2013年12月17日
[三版]2016年 8月 7日(本日)

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