救いは果たして、能力主義だろうか

 「すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。
 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」
 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」(マタイ20:30-34)

---

 エリコの盲人たち。

 群集の制止にもめげず、エリコの盲人たちはその盲目の癒しをイエスに求め続け、イエスは彼らの願いをかなえる。

 なぜイエスは、エリコの盲人たちにあわれみを示したのだろう。
 口がうまかったからか。
 声が大きかったからか。
 そうではなくて、あきらめなかったからではないだろうか。
 異邦人の女の願いを聞き届けたときも、そうだった(マタイ15:22-28)。
 彼女にしても、会話にペーソスが効いていたからイエスがあわれんで下さったのだろうか。

 もし、口がうまいとか、声が大きいとか、あるいは頭の回転が速いとか、そういうことで救われるのだとしたら、人間の救いはその人の能力に応じてなされるということになってしまう。
 救いは果たして、能力主義だろうか。
 そうではなく、エリコの盲人たちも異邦人の女も、冷遇や制止にめげずに救いを求めたから、イエスが彼らをあわれんだのではないか。
 それと同じで、私たちはあきらめずに願えば、十字架のイエスに救いを得ることができるのである。
 人間的な能力は、そのとき全く問われない。

---

[一版]2010年 7月25日
[二版]2016年 8月 2日(本日)

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« イエスの杯 なにゆえにイ... »