あわれみといけにえ

 「そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
……
 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
 人の子は安息日の主です。」(マタイ12:1-3,7-8)

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 パリサイ人はイエスに、「あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」と言った。
 イエスや弟子たちをおもんぱかって、それはまずいのではないかとしたためたのだろうか。
 そうではない。単にイエスをあげつらいたくて、難癖をつけている。
 パリサイ人にとって神の律法とは、人をあげつらうための道具に成り下がってしまった。
 律法という矢を人々に放って、いけにえにしてしまう。
 そのようなことを、果たして御父がご所望なのだろうか。
 そんなことはない。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とある。

 神の律法を自分に当てはめて厳格に守ろうとすると、それがどうにもできないという壁につきあたる。
 律法を守ることができないのだから、その人は神の御前に罪人なのだ。
 律法は、人に罪の自覚を生じさせるのである。そしてそれが、救いの第一歩となる。
 だから、救われるということは、万能な存在になることではない。
 むしろ、自分のできなさ、足りなさを受け入れ飲み込むことになる。
 そうすると、他人のできなさ足りなさもわかるので、あわれみの気持ちが自然と湧いてくる。
 御父が喜ばれる実(ヨハネ15:8)とは、こういうもののような気がする。

 では、パリサイ人が人をあわれむことをするだろうか。
 しない、というか、できない。
 あわれんでいるかのようなその行いは、あわれみではなく偽善なのだ。
 あわれみと偽善とは、似て非なるものである。
 気持ちの部分でやっているか、頭の計算でやっているかの違い、と言えばいいのだろうか。
 律法によって人をあげつらうようなパリサイ人が、自分の罪に気付いているとは到底思えない。
 そのような自分の罪がわからない人に、人をあわれむ回路があるだろうか。
 そのように書いている私も、かつてはあわれみの気持ちなど皆無だった。
 それだから私は、救い主キリストに感謝の気持ちが尽きないのである。

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