イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
パリサイ人は律法を専ら他人に押しつける
「イエスはそこを去って、会堂にはいられた。
そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。」(マタイ12:9-14)
---
パリサイ人を前に、安息日にいやすイエス。
パリサイ人はイエスに言う。「安息日にいやすことは正しいことでしょうか」。
しかし、律法とは一体、他人の行動を監視するためのものなのであろうか。
律法は神が個々人に与えたもので、その人自身の罪を明らかにして罪の自覚をもたらすためのものである。
だから、他人から言われる類のものではないし、また、罪は自分で気付かなくては意味がない。
救いがたいのはこのパリサイ人で、他人にばかり目がついて自分の罪に気付くこともない。それどころか自分は正しいなどと思っている。
また、律法の解釈問題もある。
安息日にはいかなる仕事もしてはならないのか。
神の子イエスは、律法を文言通りに当てはめていてはかえって救われない人がいるという不合理に対処している。おぼれる人がいれば助けるのが、どうして神の律法に反するのだろう。
一方、パリサイ人は、片手の萎えた人を突き出して、彼のことなどお構いなしにイエスを訴える名目にしている。
自分を救うための律法なのか、それとも他人を糾弾するための律法なのか。
それは神の律法が何のために授けられたのかということにかかっている。
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[一版]2013年11月19日
[二版]2016年 3月21日(本日)
よろしければクリック下さい。
そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。」(マタイ12:9-14)
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パリサイ人を前に、安息日にいやすイエス。
パリサイ人はイエスに言う。「安息日にいやすことは正しいことでしょうか」。
しかし、律法とは一体、他人の行動を監視するためのものなのであろうか。
律法は神が個々人に与えたもので、その人自身の罪を明らかにして罪の自覚をもたらすためのものである。
だから、他人から言われる類のものではないし、また、罪は自分で気付かなくては意味がない。
救いがたいのはこのパリサイ人で、他人にばかり目がついて自分の罪に気付くこともない。それどころか自分は正しいなどと思っている。
また、律法の解釈問題もある。
安息日にはいかなる仕事もしてはならないのか。
神の子イエスは、律法を文言通りに当てはめていてはかえって救われない人がいるという不合理に対処している。おぼれる人がいれば助けるのが、どうして神の律法に反するのだろう。
一方、パリサイ人は、片手の萎えた人を突き出して、彼のことなどお構いなしにイエスを訴える名目にしている。
自分を救うための律法なのか、それとも他人を糾弾するための律法なのか。
それは神の律法が何のために授けられたのかということにかかっている。
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[一版]2013年11月19日
[二版]2016年 3月21日(本日)
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