イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
イエスのくびき
「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:27-30)
---
看板でよく見かけそうな聖書箇所。
ここで、イエスは「そうすればたましいに安らぎが来ます」と言う。
体が休まるのでも頭が休まるのでも、心が静まるのでもない。
イエスに学ぶと、魂に安らぎが来るというのである。では、魂とはなんであろう。
魂とは、人のもっとも奥底にある土台のようなものだろうか。
魂という土台の上に、体や気持ち、それから頭の活動がある。私は勝手にそう考えている。
疲れた人よ私の下に来なさいというイエスは、疲れを感じる体や気持ちや頭そのものを休ませるのではなく、それらの奥底にある魂に安らぎを与えるという。
すなわち、救いである。
そして、その救いのために、「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」とイエスは言う。
イエスのくびきを負うのである。
このイエスのくびきとは、もちろん極刑の十字架に架かって死んでそして復活することであるから、イエスに学ぶとは、このイエスの道に続くことである。
そのくびきは負いやすい。
イエスの十字架の死を代わりに預かるのだから、イエスのくびきは軽くて負いやすいのである。
イエスは、イエスの道に預かる私たちに安らぎを与えようとしている。
それは、一時的に頭や気持ちを紛らわす類の対症療法ではなく、魂の救いという根治を与えるものなのである。
---
よろしければクリック下さい。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:27-30)
---
看板でよく見かけそうな聖書箇所。
ここで、イエスは「そうすればたましいに安らぎが来ます」と言う。
体が休まるのでも頭が休まるのでも、心が静まるのでもない。
イエスに学ぶと、魂に安らぎが来るというのである。では、魂とはなんであろう。
魂とは、人のもっとも奥底にある土台のようなものだろうか。
魂という土台の上に、体や気持ち、それから頭の活動がある。私は勝手にそう考えている。
疲れた人よ私の下に来なさいというイエスは、疲れを感じる体や気持ちや頭そのものを休ませるのではなく、それらの奥底にある魂に安らぎを与えるという。
すなわち、救いである。
そして、その救いのために、「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」とイエスは言う。
イエスのくびきを負うのである。
このイエスのくびきとは、もちろん極刑の十字架に架かって死んでそして復活することであるから、イエスに学ぶとは、このイエスの道に続くことである。
そのくびきは負いやすい。
イエスの十字架の死を代わりに預かるのだから、イエスのくびきは軽くて負いやすいのである。
イエスは、イエスの道に預かる私たちに安らぎを与えようとしている。
それは、一時的に頭や気持ちを紛らわす類の対症療法ではなく、魂の救いという根治を与えるものなのである。
---
よろしければクリック下さい。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )