我田引水について

 「すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」(マタイ4:5-7)

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 聖書の読み方について。

 ここで悪魔は、イエスを試し損なおうとするために、聖書にはこう書いてあるから身を投げよとそそのかしている。
 このような読み方は、我田引水の読み方、ご都合主義の読み方である。
 自分に都合良く書かれている(ように思われる)み言葉だけをつまみ食いする。
 そのような読み方は何度も見聞きしたし、私もかつて同じ事をやっていたと思う。

 しばしば耳にしたのは、「イエスは婚礼の席でぶどう酒を作ったのだから、酒は大いに飲んで構わない」という論法だった。
 これはもちろん、自分が酒を飲みたいからその根拠をヨハネ伝に求めたのであり、我田引水、ご都合主義以外の何者でもない。
 「私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。」(1コリント5:11)にはほおかむりをするのだろうか。

 酒を飲むのはけしからんと言いたいのではない。
 我田引水、ご都合主義は、害が大きいのではないか、ということを言いたいのである。
 物事の本質から完全にそれてしまうのだ。
 上の例だと、聖書というのは飲酒を根拠づける書物だという結論になってしまうだろう。
 大切なことは、何故イエスが婚礼の席で上質のぶどう酒を作ったのだろうか、ということではないだろうか。

 上の聖書箇所は、読み方の違いについて、考えの順序について、悪魔とイエスとのコントラストという形でよく見える。

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