イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
イエスが御父についてはっきりと告げる時
「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。
その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。
わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」
弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。
いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」(ヨハネ16:25-30)
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イエス・キリストが御父についてはっきりと告げる時のことについて。
一人語りをする。
もうずいぶんと前、教会に通い始め聖書を読み始めた頃のこと、1つの大きな疑問を私は持った。
「このイエスってのは、…誰だ?」
御父というのは神様であるから、少なくとも観念上は分かる。御霊というのも、きっとおられるであろう。しかし、このイエスという人が誰でどんな役割を果たしているのだろうか。
私のこの疑問は、教会の誰にも尋ねることができなかった。どの人もイエスを自明のものとしていて、慈しみ深いイエスと賛美している。
混乱すら覚えた。慈しみ深いというのなら、長生きして惜しまれて亡くなりましたとなるのが自然ではないだろうか、など。また、単に慈しみ深いというのなら、イエスに限らず、そう言う人はいくらでもいるだろう。
今の私は、上に書いたようには思っていない。
「イエス・キリストが御父についてはっきりと告げる時」というのは、そういうときが私たちに訪れるからだ。
そのとき私たちは、イエスに出会い、一切を了解し、このイエスが神から出てきたことをはっきりと悟る。
ただ、そのことは、「もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」、すなわち十字架という極刑の死と復活、言い換えると全ての人の肉を処分するわざを成就させてからのことである。
イエスは、御父による罪の赦しのために十字架に架かるのであり、その十字架を受け入れることのできた人は、このイエスを介して御父との和平を得る。
御父の前に罪ある身にもかかわらず、その罪が許されたのだ。
そして聖書の目的の第一は、この罪の赦しと御父との和平にある。
弟子たちは、「いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」と言っているが、例によって早とちりだ。
しかし彼らは復活のイエスに一番最初に出会った人々になる。
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その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。
わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」
弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。
いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」(ヨハネ16:25-30)
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イエス・キリストが御父についてはっきりと告げる時のことについて。
一人語りをする。
もうずいぶんと前、教会に通い始め聖書を読み始めた頃のこと、1つの大きな疑問を私は持った。
「このイエスってのは、…誰だ?」
御父というのは神様であるから、少なくとも観念上は分かる。御霊というのも、きっとおられるであろう。しかし、このイエスという人が誰でどんな役割を果たしているのだろうか。
私のこの疑問は、教会の誰にも尋ねることができなかった。どの人もイエスを自明のものとしていて、慈しみ深いイエスと賛美している。
混乱すら覚えた。慈しみ深いというのなら、長生きして惜しまれて亡くなりましたとなるのが自然ではないだろうか、など。また、単に慈しみ深いというのなら、イエスに限らず、そう言う人はいくらでもいるだろう。
今の私は、上に書いたようには思っていない。
「イエス・キリストが御父についてはっきりと告げる時」というのは、そういうときが私たちに訪れるからだ。
そのとき私たちは、イエスに出会い、一切を了解し、このイエスが神から出てきたことをはっきりと悟る。
ただ、そのことは、「もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」、すなわち十字架という極刑の死と復活、言い換えると全ての人の肉を処分するわざを成就させてからのことである。
イエスは、御父による罪の赦しのために十字架に架かるのであり、その十字架を受け入れることのできた人は、このイエスを介して御父との和平を得る。
御父の前に罪ある身にもかかわらず、その罪が許されたのだ。
そして聖書の目的の第一は、この罪の赦しと御父との和平にある。
弟子たちは、「いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」と言っているが、例によって早とちりだ。
しかし彼らは復活のイエスに一番最初に出会った人々になる。
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