持てる者と持たざる者

 「イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」(マタイ13:11-12)

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 自分の昔話をする。しかも聖書とは関係がない。

 私は物理が、分からないながらも好きで、それにしても全く分からなかった。
 高校2年の一番最初に学ぶ運動方程式F=maをどう理解すればよいのかさっぱり分からず、途方に暮れ続けていた。
 そのF=maの意味がはっきりと分かったのは高校3年生の夏、家で勉強していたときで、突然分かったそのときにはまるで天が開けたかのような感動を覚えた。
 それだけでなく、このF=maが理解できたことによって、物理全体が一挙に理解できるようになった。
 つまり、F=maが分かることは、物理学の全体が分かるということだった。

 聖書もそれに似て、十字架と復活がはっきりと分かるか分からないかは、持てる者と持たざる者との分水嶺となる。
 このたったひとつのことを分かっている人は、知れば知るほど確信と信仰が強くなる。
 この世でやってゆける力を、聖書が与える「いのち」からくみ出すことが出来る。
 しかし、「持たない人」にとっては、知れば知るほど、かえって振り回されてしまうと思う。

 事は十字架と復活が分かることに帰結する。
 そしてこれは、因果関係ではない。恵みなのだ。
 勉強を重ねたから分かるとか、ごみ拾いを毎日したから救いに預かるというような短絡的なものではない。
 だが、求めれば必ず与えられるのであり(参/マタイ7:7)、恵みは誰にも預かりうる。
 持たざる者から持てる者には変わることができる。

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