悲しむイエス

 「彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。
 イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。
……
 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」(マタイ14:10-14,19-23)

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 ヘロデ王によって、バステスマのヨハネは首をはねられた。
 その報を聞いたイエスは、「舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた」。
 ただ一人の地上での理解者を失って、ほんとうに悲しかったと思う。
 しかし、群衆はそんなことはお構いなしに、このイエスに群がる。
 ほんとうはイエスは、ひとり寂しい所で祈りたい。ひとりだけのところで、悲しみたい。
 だがイエスは彼らを深く憐れみ、病を癒し、五千人の給食の奇跡までなさる。イエスは群衆達に、御自身の悲しみを見せなかった。
 イエスはこのとき悲しみにくれていたので、悲しみと病を負う群集に、いつも以上に共感できたのかも知れない。

 ところで私は前々から不思議に思っているのだが、給食の奇跡によって空腹を満たした群衆は、実にあっさりとイエスから離れてくれる。四千人の給食(マタイ15:32-39)でも、全く同様に、あっさりイエスから離れる。
 イエスが与えたいものは「いのちのパン」(ヨハネ6:48)であって、マナのような、それを食べて空腹はしのげても死からは逃れることのできない(ヨハネ6:49)ようなものではない。
 五千人(四千人)の給食というのは、いわばマナを与えるようなものだ。
 応急措置にすぎない。
 ところが群衆は、この応急措置を受けて、すっかり満足しきっておとなしく帰る。
 次から次へと飛び出るパンには喜んでも、「いのちのパン」を与えてくれるイエスのしるしの意味には全く目が行かない。

 話を元に戻すと、満腹した群衆はあっさり引き返してくれたので、イエスはようやく山に登ってひとり祈り始められた。
 バステスマのヨハネの死、地上での唯一の理解者の死。
 ひとり祈る中で、イエスは思う存分、悲しさを父に訴えられたと思う。
 不安ものもあったかもしれない。
 イエスはこのとき肉をまとっているので、私たち同様悲しむし、不安もあっただろう。

 復活のイエスが私たちの肉の弱さを理解できるのは、かつて肉をまとっていたからであり、だからこそ、キリスト・イエスは神と私たちとの間を取りなす大祭司(ヘブル7:24-25)たりえるのである。

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[付記]
 一版:2007年 7月22日
 二版:2010年 7月13日
 三版:2012年 4月28日(本日)

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