種は蒔かれ続けている

 「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ13:19-23)

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 種まきのたとえの、イエスご自身による解き明かし。

 4つのタイプの人が登場する。
 この区分けそれ自体は、比較的どうでもよい。
 どの人にも、種は蒔かれているからだ。
 蒔かれ続けている。
 その種が、恵みによってわたしたちの中で実を結ぶこと、それも「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実」を結ぶこと、これだけが大切なことである。
 これはあくまで恵みによる。
 自分の力で地質改良して種よ実を結べよ、とやることは不可能なのだ。
 むしろ、蒔かれ続けている種が、わたしたちの中の良い地の部分に、恵みによって落とされたか、ということが大切なことなのだろう。

 道ばたに種が落ちようとも、岩地に落ちようとも、また、いばらに落ちようとも、大切なことは種が蒔かれ続けているという神のあわれみなのである。

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[付記]
 本日の記事は、2010年7月10日付記事に筆を加えたものです。

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