すべての人が罪の下にある

 「でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
 「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:7-10)

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 私たちが神の律法を遵守しないのは、遵守しないことによってかえって神の律法の素晴らしさを光り輝かせるためであろうか。
 単にそうであるとしたら、私たちはやろうと思えば律法遵守をきちんとできるということになる。しかし、聖書には次のように書かれている。

 「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。」(ローマ2:21)

 つまり、誰一人として神の律法を守り通すことは出来ない。
 義人はいない。一人もいないのである。
 それは人間の肉のゆえ、罪を宿すこの肉の故である。
 そしてそのことは人種にはよらず、また、律法を知っているかどうかにに限ったことでもない。
 「すべての人が罪の下にある」のである。
 ただ、そのことに気付くか気付かないか、理解できるかできないかが、人によって違ってくるが、このことは専ら恵みによることである。

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