誰が神のさばきを免れるのか

 「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。
 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。
 私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
 そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ1:29-2:4)

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 神の定めによれば死罪に当たることを行う者。
 そのことをさばくことによって、自らも同じ罪に当たることを明らかにしてしまう者。
 そして、そう書くことによって自らも罪に当たることになるパウロ。
 そうすると、一体誰が神のさばきを免れるのだろうか。
 およそすべての人が、神の前に死罪に当たるのである。

 そのことが分かって自分の罪深さに思い至った人に、はじめて神の慈愛の戸口が開かれる。
 「私の罪深さ」を自覚することが、救いへの入り口である。
 罪が無くなることはないが、イエスの十字架と復活ゆえに赦され、解放される。

 そのためには、まず自分の内にある罪を罪と自覚する必要がある。
 神の律法は、その自覚のために機能するものである。パリサイ人がやったように、さばくために用いるものではない。
 だから、「あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者」が自分をそうと自覚できれば、そうでない者よりもずっと救いに近いのである。

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