剣を抜く罪

 「シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」(ヨハネ18:10-11)

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 剣を抜いて敵の耳を切り落とすペテロ。
 そのことの証人は、被害者当人でもあるしもべマルコス。

 もし私がペテロの立場であったら、同じことをするに違いない。
 それどころか、喉を狙いさえするだろう。
 これは立派な律法違反だ。証人もいるので、逃れようがない。
 なにより神がご存じだ。

 この律法違反を行うのは私の理性というよりは、肉の部分だろう。
 私やペテロは、肉が犯す罪から逃れることがどうしてもできない。
 どこまでいっても、律法違反という罪、神の秩序への反発がつきまとう。

 これから十字架に架かり復活するイエスがもたらす救いとは、そのような私やペテロがそのままで赦されている、私の肉は十字架によって死んだがイエス同様復活したのだ、ということが分かることである。
 このことは、文字面から納得する類のことではない。
 文字面の意味をはるかに越えて、恵みによってみことばが救いへの扉を開くのである。

 仮に剣を抜いて、地上で刑法上傷害罪に問われたとしても、そういうわけで天の律法からの責めからは解放されているのである。

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