アガペー

 「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:25-26)

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 イエスの祈りが終わる。

 御父が御子を愛しているというのなら、なぜ御子を凄惨な十字架に架けるのだろう。
 復活が約束されているとはいえ、途方もなく辛いわざには違いない。
 御父は愛する者を、わざわざ辛い目に遭わせるのだろうか。
 というよりも、ここでいう御父の愛とは御子への絶対的な信頼ということではないだろうか。

 同じように、御父はアダムの肉を持つ人間をも、絶対的に信頼している。
 正しいのはただお一人、御父だけである。御父が唯一の権威だからで、律法もまた完全に正しい。
 その律法をまったく守ることのできないアダムの肉は、御父の正しさからするとあまりに罪深い。
 そうであるにもかかわらず十字架の御子イエスをいけにえとして送って下さり、そこまでして人間を罪から救い出そうとされているのである。
 人間への期待、というか、罪を悔い改めることについての絶対的な信頼を御父はお持ちだ。
 そのための御子の犠牲こそ、御父の人間への愛なのではないかという気がする。

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