イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
からだは罪のゆえに死んでいても
「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。」(ローマ8:10-12)
---
私たちは、アダムの肉の罪深さのゆえに、霊肉共に生を見ない者であった。
けれども、復活のキリストとの出会いは、私たちを義としてくださった。
「いのち」が与えられたのだ。
死んでいた霊が、今は生きているのである。
これは、「活力」とか「元気」とか「勢い」いうものとも、全く違う。
その人の内に、礎石が据わったようなものである(マタイ7:24-25)。
そのように恵みによってこの復活のキリストから「いのち」をいただくのだが、この「からだ」が死んでいることには変わりない。
アダムの肉に対して私たちは今もあまりに無力なのだ。
だが、義とされた私たちは、もはや「肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません」。
すなわち、肉で肉をコントロールするという、今まで通りの無理な努力をする必要がない。
肉で肉をコントロールするという原理は、もはや過ぎ去った死の原理なのである。
今もって「からだは罪のゆえに死んでいても」、前と違って、今はキリストの「いのち」に預かって真に自由に生きている。
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[付記]
「肉」と「からだ」とがでてきてややこしいのですが、かなり意訳をしていると思われる英語聖書TEVでは、「肉」を"human nature" すなわち「人間の性質」としています。ちなみに「からだ」は、"body" で、これは他の英語聖書もそうです。
「肉」についてのTEVの解釈は、個人的には妥当だと思います。
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もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。」(ローマ8:10-12)
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私たちは、アダムの肉の罪深さのゆえに、霊肉共に生を見ない者であった。
けれども、復活のキリストとの出会いは、私たちを義としてくださった。
「いのち」が与えられたのだ。
死んでいた霊が、今は生きているのである。
これは、「活力」とか「元気」とか「勢い」いうものとも、全く違う。
その人の内に、礎石が据わったようなものである(マタイ7:24-25)。
そのように恵みによってこの復活のキリストから「いのち」をいただくのだが、この「からだ」が死んでいることには変わりない。
アダムの肉に対して私たちは今もあまりに無力なのだ。
だが、義とされた私たちは、もはや「肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません」。
すなわち、肉で肉をコントロールするという、今まで通りの無理な努力をする必要がない。
肉で肉をコントロールするという原理は、もはや過ぎ去った死の原理なのである。
今もって「からだは罪のゆえに死んでいても」、前と違って、今はキリストの「いのち」に預かって真に自由に生きている。
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[付記]
「肉」と「からだ」とがでてきてややこしいのですが、かなり意訳をしていると思われる英語聖書TEVでは、「肉」を"human nature" すなわち「人間の性質」としています。ちなみに「からだ」は、"body" で、これは他の英語聖書もそうです。
「肉」についてのTEVの解釈は、個人的には妥当だと思います。
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