罪の中で死ぬ

 「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(ヨハネ8:24)

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 アダムの違反以来、罪の肉が人間に入り込んでいる。
 なので、人は皆、「罪の中で死ぬ」のだ。
 ただ、ここには留保が附されている。
 「わたしのことを信じなければ」。

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

 キリストがなした十字架と復活という贖いの「わざ」を神の恵みによって信じるとき、その人は不義なる存在であるにもかかわらず義と認められる。
 キリストを信じる者は、罪赦されるのである(罪がなくなるのではない)。
 その人は、キリストが拓かれた道と同じ道を歩む。
 すなわち復活であり、その人が「罪の中で死ぬ」ことはない。

 行いや善行、倫理観、あるいは品行方正さによって義とされるのではなく、キリストを信じることによってのみ義と認められる。
 ここで問題となるのは、毎度の事ながら「信じる」ということの恵みについてである。
 行いや善行、倫理観、あるいは品行方正さによっては、けっして信心には到達しない。
 どこまでもイニシアチブは神の側にあり、ただ神の恵みのみによって信じることができるようになる。
 だから、御神に願うことは本質的にはただひとつ、「イエスを信じる信仰を下さい」だけになる。

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