光によって子供に生まれ変わる

 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。」(ヨハネ3:18-19)

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 世俗の垢にまみれていると、時折、あくどいことや小ずるいことにばかり頭がくるくる回る人に難儀させられることがある。そっちの方ばかりくるくるっと頭が働くようで、感心するほどだ。
 上の聖書箇所からすれば、そのような人はやみを愛している、と言えるのかも知れない。

 では、「御子を信じる」、光を愛するとは、どのようなことだろう。

 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3新共同訳)

 肉から生まれた人間は、程度の差はあれどの人もやみに属しており、罪の中にいる。
 そして私たちは、光によって私たちの罪が照らされて、それを神から赦されたいと切に願っている。
 子供のようになることがすなわち信仰なのであり、御子の十字架と生まれ変わりによってはじめて可能となる。それは子供のような言動をすることではない。
 端的に、御子によって、やみから光へと生まれ変わることができ、そのとき罪は赦される。
 私たちは、アダムの肉を持つ罪まみれのものではあっても、罪赦され神を喜び、御国が中心の世界観へと変わってゆく。

 イエス・キリストという光に照らされた自分の罪を認めるか、それがいやでこの光から身を隠すかのどちらかなのだろう。
 冒頭に書いた頭がくるくるっと回るような人たちも、窮地に陥ってはじめて光を認めることはあるはずだ。

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