イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
正しく信じる
「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。
そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」
その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」
イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。
彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。」(ヨハネ4:47-51)
---
イエスが役人の息子を癒す。
イエスは、なにゆえに人々を癒されたのであろうか。
ひとつには、純粋にあわれみの気持ちから。
ひとつには、しるしによって自分がキリストであると悟らせたい。
それと、もう一つ、この癒しのプロセスを通して「救いの型」を示したのではないか。
いずれにせよ、上の聖書箇所のようにイエスを信じた者の願いが聞かれる。
ただ、復活のキリストに願うものといったら、もっぱら何であろうか。
十字架に肉を捨てて復活したキリスト、その「いのち」でなくてなんであろう。
病のいやしは、偽キリストでもできるに違いない(こういう言葉が適切かどうかは分からない)。
だが、あなたに「いのち」を与えることができるのは、復活のキリストただお一人である。
だから、誰の何について信じるか、ということがとても重要なことになる。
的はずれなものを信じても、「いのち」にあずかることはできないからだ。
イエスが切り開いた十字架の道を通して「いのち」に至ることを求めることこそ、イエスを信じるということである。
上の聖書箇所での役人は、公生涯にあるイエスをいわば正しく信じ、その結果、恵みにより約束のものが与えられた。
これが救いの型である。
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そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」
その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」
イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。
彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。」(ヨハネ4:47-51)
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イエスが役人の息子を癒す。
イエスは、なにゆえに人々を癒されたのであろうか。
ひとつには、純粋にあわれみの気持ちから。
ひとつには、しるしによって自分がキリストであると悟らせたい。
それと、もう一つ、この癒しのプロセスを通して「救いの型」を示したのではないか。
いずれにせよ、上の聖書箇所のようにイエスを信じた者の願いが聞かれる。
ただ、復活のキリストに願うものといったら、もっぱら何であろうか。
十字架に肉を捨てて復活したキリスト、その「いのち」でなくてなんであろう。
病のいやしは、偽キリストでもできるに違いない(こういう言葉が適切かどうかは分からない)。
だが、あなたに「いのち」を与えることができるのは、復活のキリストただお一人である。
だから、誰の何について信じるか、ということがとても重要なことになる。
的はずれなものを信じても、「いのち」にあずかることはできないからだ。
イエスが切り開いた十字架の道を通して「いのち」に至ることを求めることこそ、イエスを信じるということである。
上の聖書箇所での役人は、公生涯にあるイエスをいわば正しく信じ、その結果、恵みにより約束のものが与えられた。
これが救いの型である。
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