古い皮袋、新しい皮袋

 「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。
 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(マタイ9:16-17)

---

 上の聖書箇所のたとえは、ひとことで言ってしまうとモーセはモーセとして扱い、イエスはイエスとして扱うことの必要性についてである。
 イエスの教えは、パリサイ人が占めるあの教えとは似て非なるもの、それも全く違う新しいものだ。
 しかし、世を渡るためには、あの連中のとおりにしないと袋だたきに遭ってしまう。
 だから、それはそれ、これはこれという対応が必要になる。
 このことについては、イエス自身、「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。」(マタイ23:2-3)と言っている。

 このことを形を変えて現代にあてはめると、新自由主義に代表される資本主義そのものは受け入れざるを得ないのだが、それはそれ、これはこれとして、自分のたましいにとって大切なもの、すなわちイエスを受け入れる生活を営むことが必要になってくる。
 同じ皮袋に聖書も資本主義も両方ぶち込んでしまうのが、よくないのである。

---

 ヨハネ伝の10:28まで続けて読んできましたが、しばらくアトランダムに進めます。

 健やかな一日をお祈りします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 富に仕えて神... 誰のための愛か »