動かしたいものは何か

 「翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。
 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21:18-22)

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 いちじくの木を呪うとたちまちにして枯れてしまうとは。
 そしてこのイエスは、「もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。」と言う。

 しかし私たちは、信仰に至る際に、自分の中の大きなものがごろりと動いたことを知っている。
 それは、たちまち木が枯れるよりも、山が海にはいるよりも難しかったことだ。
 イエスの十字架に死んでイエスの復活に預かるということは、これだけの大きな動きが伴う。
 私たちは罪赦され、救いに預かったのだ。

 そうすると、私たちは何を祈り求めればいいだろうか。
 山が海にはいることだろうか、木がたちまち枯れることだろうか。
 だが、そのようなことができたら何になるのだろう。
 それよりも、一番大切なこと、大切な唯一のことを祈り求めるのである。
 イエスも何でも与えると約束している。

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 健やかな一日をお祈りします!

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