科学教

 「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。
 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:8-9)

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 パウロが何を指して「だましごとの哲学」としているのかは、よくわからない。
 ここでは、自然科学を例にとるべく、まずユング心理学者の大家である河合隼雄氏の著作から引用する。なお、氏は学生時代に数学を専攻している。

 まず、

 「自然科学の根本には、自と他の区別を明らかにすること、が存在する。そのように峻別された「自」が「他」を客観的に観察することによって得た知見は、「自」と関係がないために、観察者の存在をこえた普遍性をもつ。……、全世界に通じる普遍性をもっているために、世界を席巻し得たのである。」

と前置きした上で、

 「たとえば、ある人が「なぜ母は死んだのか」という問いを発する。これに対して、自然科学は「出血多量により」とか……とか説明してくれる。その説明は正しくはあっても、その人を満足させるものではない。その人の問いは、「なぜ私の母が死んだのか」ということ、つまり、その人にとっての意味を問うているのである」

と筆を進める(「イメージの心理学」、pp.15-17)。

 私は自然科学を「だましごと」とも「幼稚な教え」とも思っていない。
 ただ、もっぱら頭だけの理解にとどまるものとは、常々思っている。そして、それで足りることは少なくない。
 たとえば、上の引用のように「なぜ母が死んだのか」というようなことについては、自然科学は無力である。この徹底的な無力さは、自然科学が頭の観念すなわち哲学の領域しか扱っていないからにほかならない。
 言い換えると、自然科学にとって主観は守備範囲外である。もちろん神についても信仰についても、自然科学は守備範囲から外れている。誤解を恐れず踏み込むと、合理的に割り切れないものは自然科学の対象外になる。

 さて現代は科学万能と思われていて、全世界をも合理的な取り扱いが可能であると思われている節がある。科学教とでも呼べばいいのか。
 しかし、合理性を突き詰めようとすると、今度は新たな不合理が発生する。
 すなわち、神が死んでしまったのだ。
 私には与えられた信仰によって和解できた御父がいてくださるが、大方の人にとっては、神は死んだか、神を見放したか、あるいは神から見放されたのである。
 科学教は、人々にとって最も大切なものを死なせてしまったように思えてならない。たとえば「神の満ち満ちたご性質」などがそれに当たる。

 この科学教というのは、卑なる科学であり卑なる宗教だと私は思う。
 科学教の人たちが「Aは正しい」と考える理由が、高名な教授が「Aは正しい」と言ったから、というのは、テレビを見ているとよく見かける。
 なぜAは正しいのかを考えるプロセスが自然科学には不可欠であるし、それに、神は信じないくせに教授の言は疑いもせずに鵜呑みにしてしまう。名のある教授はいったい卑なる神なのだろうか。
 私は自然科学を「だましごと」とも「幼稚な教え」とも思っていないが、この科学教は「だましごと」で「幼稚な教え」としか思えない。
 こんな科学教が大手を振って歩いていて、神を死なせた上にさらに非科学的な論理がまかりとおるのだから、合理性も非合理性も、もうどちらも行き詰まりになっているのであろうか。

 なんとかの考え休むに似たりというのか、自然科学や科学教を生み出す頭という部位は思っている以上に愚かだと自分自身についても実感する。
 それより体や心の方がはるかに賢い。
 科学教の今を生きる多くの人が、体や心の部分では御父を求めているかもしれない。言語化されにくくわかりづらいだけだ。かつての自分が教会の門を叩いたときも、頭で考えてそうしたのではない。
 本物の満足感は、科学教でも自然科学でも得ることはできない。それは、キリストを通して御父が与えてくださっている。

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 健やかな一日をお祈りします!

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