「家を建てる者たち」と「見捨てた石」

 「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』
 だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」(マタイ21:42-43)

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 「家を建てる者たち」と「見捨てた石」との関連について。

 この当時は、パリサイ人やサドカイ人が「家を建てる者たち」、すなわち祭事を一手に仕切っていた。
 自分たちが神の御心に沿っていると思いこみ、たとえば安息日警察なども買って出る(それこそ何の権限があるのだろうか)。
 そのような彼らから罪人呼ばわりされた取税人や遊女、彼らが「見捨てられた石」だ。
 家を建てる者からすら見捨てられる立場の方が、自身の内面を見つめて罪を見いだし、その罪を悔いる機会が多いことは明らかである。少なくとも、安息日警察のように他人をあげつらってばかりいるよりは、ずっと悔い改めの機会は多い。
 そして神の国は、悔い改めない人よりも悔い改める人のものであり、取税人たちはその神の国の礎の石なのである。

 これは2000年前のことなのだろうか。
 そうではない。
 「家を建てる者たち」あれば「見捨てられた石」あり、そしてその「見捨てられた石」こそが神の国の実を結びうるのは、今に至るまで変わらない。
 神の国の実を結ぶために大切なことは、悔い改めに至ることだからである。

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[一版]2013年12月21日
[二版]2018年 6月16日(本日)

・今回この記事を改版するに当たって、2011年に起きた大津中2いじめ自殺について調べました。
 現在も民事訴訟が続いているのですが、加害者の一人は2017年12月に行われた口頭弁論で「リアクションやエンターテインメントを求めていた」と答えています。
 まったく耳を疑うほかないのですが、自分の内面を見つめることができない、それどころか見たくもない、こういう人が一定数いるのは確かなことで、彼らは人を傷つけても平気なのです。
 こういう人を避けろと言うよりかは、こういう人々のおかげで自分の内面を深めることができるという気もします。悩みのないところには、気づきもありません。

 礎の石となった被害者のご冥福をお祈りします。

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