わたしは渇く

 「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:28-30)

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 十字架のイエスを描写する箇所。

 イエスは人々にこう呼びかけ続けた。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)
 渇ききっている人々に呼びかけ続け、枯れない水が内からわき出ることを約束した。

 その満ち満ちたイエスが、十字架の上でこう言った。
 「わたしは渇く」。
 十字架の上で、イエスはこころの飢え乾きを覚えた。
 それは、人々が抱えているこころの飢え乾きと全く同じものだ。

 今、神が死のうとしている。
 アダムの肉をまとった神として、死に往こうとしている。
 このアダムの肉自体を処罰するためだ(ローマ8:3)。
 その処罰が「完了」して、肉としてのイエスは死ぬ。
 そしてイエスの復活は、アダムの肉を処罰してもよみがえるということの初穂である。
 この処罰と復活とが、人を救い渇きをいやす。

 復活のイエスは、人間の渇きを実体験した上で、今も「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と呼びかけている。

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[1版]2007年12月 6日
[2版]2008年 2月28日
[3版]2009年 7月 5日
[4版]2014年12月28日
[5版]2019年 6月 2日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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