土台

 「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24-27)

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 山上の説教の最後。
 土台について。

 それにしても最近の若者の狼藉ぶりには、目が余るものがある。
 高速道での故意の事故をはじめ、通勤の電車の中などでは自分も被害に遭う。
 彼らはどうも、実際の世界はゲームの延長と思っている節がある。正に砂の土台だ。
 善悪の概念自体がないような、こんな屁のような連中に腹を立てるのも馬鹿らしくなる。いや腹立たしいんだが。

 ここまで大層偉そうに書いてきたが、しかし自分の若い頃だって彼らと大同小異だった。
 あまりにもひどかったから、それでふらふらになって教会の門を当時叩いた。
 今までの砂の土台では立ちゆかないと気付いて、人は初めて救いを求めるような気がする。

 イエス・キリストを通して魂が救われると、今までの砂の土台は岩の土台にがらりと変わる。
 土台というか、根底の部分、奥底の部分という方が分かりがいいかもしれない。
 善悪について、また、そのほかのことについても、確かなものに入れ替わる。
 実は、この岩の土台は、自分のものではないし、自分から出たものでもない。
 私たちは罪に死んで、自分を復活のイエスに明け渡したのだった。
 だから、この岩の土台とは内住の聖霊なのである。
 砂は自分で岩は御霊といえばいいだろうか。

 山上の説教は、全ての人は罪の下にあるというものであり、その最後に、罪からの解放の結果についても、イエスは約束している。

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 健やかな一日をお祈りします!

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