『待つ』という灯

 「ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
  しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」(マタイ25:6-13)


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 賢い娘と愚かな娘のたとえ。
 13節は、前回取り上げた箇所と同じ。

 約束通り、ついに花婿が来た!
 賢い娘は花嫁を迎える準備が出来ていたが、愚かな娘は出来ていなかった。それも全くできていなかった。
 愚かな娘は祝宴に入れてもらえず、賢い娘が花婿と共に祝宴に行った。

 しばしば9節が問われる。賢い娘は冷たい等。
 だが、きわめて愚かな娘に油をもし分けたら、共倒れになるところだった。その方がよほど愚かだ。
 花婿が会いに来るということは一生に一度あるかどうかのことで、その時を待ち続けているのである。
 そういうときに『待つ』という灯を消すことこそ愚かなのだ。愚鈍な娘は店に行ってしまう。

 復活のキリスト・イエスは、「いのち」というプレゼントを携えて私たちのもとにおいで下さる。
 ただ、いつ来られるのかが分からない。
 だからこそ、罪の赦しに飢え乾いている私たちは、準備万端待ち続けることが大切になる。

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