イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
『あなたを知らない』と言い張ることについて
「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。
しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。」(マタイ26:31-35)
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お調子者ペテロは、ここで「あなたを知らないなどとは決して申しません」とイエスに言いつつも、いざその時になると知らないと言い張る。そして、鶏が三度鳴いて気付いたペテロは「激しく泣いた」(マタイ27:69-75)。
上の聖書箇所で、イエスは「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」と言うが、これはイエスに予知能力があるというよりは、人間の肉の弱さへの深い理解なのではないだろうかと思う。
つまり、イエスの神性が顕れた、という以上に、罪深い肉を持つ人間へのイエスの深い理解が示されている。
その肉の罪深さから開放するために、十字架への道をイエスは歩み続ける。
ペテロのお調子者ぶりは、そのままペテロの肉の弱さである。
公衆の面前で「イエスを知っている」と言ったら、捕まって尋問され鞭打たれるに決まっている。
その肉の弱さに気付き、悔いて激しく泣くペテロは、言ってみれば、自分のどうしようもなさを悔いている弱き人間なのである。
そうすると、イエスを十字架へとおびきよせているサドカイ人、パリサイ人そして律法学者たちの罪に対するあまりの無自覚ぶりが、ペテロと対比されて強調されてゆく。
彼らは、自分たちが律法を遵守できているなどと思っている。
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しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。」(マタイ26:31-35)
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お調子者ペテロは、ここで「あなたを知らないなどとは決して申しません」とイエスに言いつつも、いざその時になると知らないと言い張る。そして、鶏が三度鳴いて気付いたペテロは「激しく泣いた」(マタイ27:69-75)。
上の聖書箇所で、イエスは「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」と言うが、これはイエスに予知能力があるというよりは、人間の肉の弱さへの深い理解なのではないだろうかと思う。
つまり、イエスの神性が顕れた、という以上に、罪深い肉を持つ人間へのイエスの深い理解が示されている。
その肉の罪深さから開放するために、十字架への道をイエスは歩み続ける。
ペテロのお調子者ぶりは、そのままペテロの肉の弱さである。
公衆の面前で「イエスを知っている」と言ったら、捕まって尋問され鞭打たれるに決まっている。
その肉の弱さに気付き、悔いて激しく泣くペテロは、言ってみれば、自分のどうしようもなさを悔いている弱き人間なのである。
そうすると、イエスを十字架へとおびきよせているサドカイ人、パリサイ人そして律法学者たちの罪に対するあまりの無自覚ぶりが、ペテロと対比されて強調されてゆく。
彼らは、自分たちが律法を遵守できているなどと思っている。
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