香油女

 「さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マタイ26:6-13)

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 イエスに香油を注いだ女性の名は、まったく不明だ。
 それなのに、福音の伝わるところ、この女性のしたことも伝えられ、それが彼女にとっての記念になるとイエスは仰る。

 ところでイエスは、すべての人々の無理解の中にいた。
 だが「香油女」、彼女は唯一、イエスを理解していた。
 イエスがキリストであり、多くの人々を救う十字架の道にいよいよ就くのだということを。
 それで、埋葬の用意をしてくれていた。
 香りで臭いを消すための、まさに埋葬用の香油だ。
 バステスマのヨハネでさえ、イエスを疑った(「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」マタイ11:2-3)
 だから「香油女」は、福音の伝えられるところどこでも、イエスの唯一の理解者として語り継がれるのである。

 一方、弟子たちは「この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」とやっている。
 これは義憤というやつで、単に香油の高価さに目が惹かれているというだけのことだ。
 だが、取税人といい遊女といいこの弟子たちといい、こういう人々が分からないながらも救いを求めてイエスに付き従っていた。
 イエスは彼らをけっして拒まない。
 分かるときが来るからだ。
 早いか遅いか、それは分からない。
 イエスはこう仰る。
 「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」(マタイ20:16)


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[付記]
 本日の記事の履歴は
   一版:2007年7月31日
   二版:2008年8月21日
 今回も少し筆を入れました。

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