裏切られるということ

 「そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
 こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
 そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。」(マタイ26:14-16)

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 イスカリオテのユダがイエスを裏切る。

 ユダはなぜイエスを裏切ったのだろう。
 銀貨三十枚というのは、ユダにとって相応の対価だったのだろうか。
 そういった疑問に、聖書は全く応えていない。
 とにかくユダはイエスを裏切った。

 こっぴどく裏切られ、そして極刑の十字架に架かるイエス。
 イエスが歩む十字架の道は、このようなものである。
 アダムの肉を徹底的に糾弾し処罰を与え、そしてよみがえる。
 私たちは、イエスが開いたこの十字架の道、救いの道を、イエスに続いて歩んでいる。
 もしこっぴどく裏切られたならば、それはこの道から逸れてはいないということに他ならない。
 「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイ5:11-12)

 最も忌避すべき事態は順風満帆ということで、見捨てられているとすら言ってもいい(ヒルティも同じことを書いている)。

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