律法と信仰

  「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3:31)

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 前回の「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3:28)という、いわゆる「信仰義認」は、一つの問題点を残す。
 それは、「信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか」ということ、言い換えると、信仰によって義とされるのならば律法は不要なのではないか、ということである。

 律法とは、神の完全な秩序の表出である。
 アダム以来の人間の肉は、これを守ることができず、ゆえに神の御前に罪深い存在である。
 また、イエスは言う。
 「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます」(マタイ5:18)。
 この神の完全な秩序は、すなわち「アルファであり、オメガであ」って、昔も今もこれからも、私たちの上を覆い続けている。
 私たちはこのままでは、未来永劫神の御前に赦されない。

 しかし、そのように律法が厳然として存在することの中で、罪のない肉を持つイエスは信仰の原理によって救われるという道を開いてくださった。
 そして、アダムの肉がその罪深さから救われるということは、律法の目的に完全に合致している。
 律法の下で、信仰の原理によって救われると言ってよい。
 「律法の下」にあって、自分にはこの完全な秩序を到底守ることのできない罪人である、という認識を生み、それが十字架と復活を信じる信仰へと進ませるのである。
(ローマ書が進むにつれて、このことは更に明瞭になる。)

 そうすると、救いということについて、律法と信仰とは二者択一するようなものではなく、かえって互いに補完し合っているのである。
 信仰が与えられるためには、律法がどうしても必要なのだ。
 そうであるから、信仰は「かえって、律法を確立する」のである。

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