人にちょっかい出す前にまず自分の救いに専心せよ

 「さばいてはいけません。さばかれないためです。
 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」(マタイ7:1-6)

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 この世はあらゆる種類のさばきに満ちている。
 あのSNSなど、罪深いアダムの肉の性質がここまでわかりやすく現れている。
 法令はこれを禁じて臭いものに蓋をしようとする。
 一方、神の律法はこの臭いものは自分の罪であるという自覚、自分は罪人であるという自覚に導くものである。
 この自覚は、自分の内側から気づいて身になるものなので、「あなたの目のちりを取らせてください」と他人が律法違反を指摘することは、罪そのものについては意味はなく、単にさばくためにさばいている。聖句を用いてさばくのだから、正にこの世はあらゆる種類のさばきに満ちている。
 昔も今もそういう世であるからこそ、自分の罪に自ら気づくことの大切さはとても大きい。
 その罪に死んで、イエスと同じくよみがえって救われるのである。
 言い方を変えると、人にちょっかい出す前にまず自分の救いに専心せよということになる。

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[一版]2022年 2月13日
[二版]2024年 8月18日

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ものがありふれたら一番大切なものを見失ってしまった

 「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31-33)

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 唐突だが、近代という時代は、もっぱら頭による支配だったのではないかと思い始めている。
 ヴォルテールやルソーらが頭で紡いだ思想はフランス革命の一因となり、建前の上ではこれら諸思想が政治原理となった。
 物理学を用いエネルギーを操って、機関車や飛行機といった金属の塊を自在に動かせるようになった。
 農学や化学は収量を大幅に増やし、さらにそれを加工した食べ物や飲み物は大量に増産された。
 原油から合成繊維が作り出され、安価な服があふれんばかりに行き渡った。
 心配することなど何一つない、なんでもある! 我らが頭の大勝利だ!
 なにしろなんでもあるので、神の国は必要とされなくなった。
 心身共に疲弊しきってぼろんぼろんになりながら、片時もスマホを離さず勝利の雄叫びを上げている。
 しかし、この近代にあっても、神の国とその義に満ち足りたなら、その人は、この頭の支配から解放されて自然な営みをできるようになる。
 ほんとうのもの、すなわちイエスの復活のいのちが与えられると、飲んでもまた乾くものに満足できない人がすっかり満ち足りるのである。

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[一版]2018年 2月11日
[三版]2024年 8月17日

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あなたのうちの光

 「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:22-23)

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 「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」。

 「あなたのうちの光」。
 これが私たちの中で光放たなければ、私たちのうちの暗さは耐え難い。
 福音書の登場人物で言うとニコデががこの暗さに絶望している。
 そしてこの点については、どの人もニコデモと変わらない。
 日々を忙しくしてこの暗さから目をそらすようにしている人も少なくないだろう。
 強い刺激でこの暗さをごまかす人も少なくないだろう。
 しかし、どうしようとも私たちのうちの光は暗いのだ。
 暗く、絶望している。
 これは、魂についての問題であるから、頭の考えでどうなるものでもない。
 さらに輪を掛けて、あの物質主義が私たちをこの暗さの淵に追いつめ続けている。

 では、何が私のうちを照らすのであろう。
 「あなたのうちの光」、それは「いのち」だ。
 この「いのち」の光が内側から輝く。
 そして、内側を照らすいのちの光が、私たちの魂をよみがえらせる。
 イエスは、この「いのち」を多くの人に与えるために、この世に来られた。

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[一版]2007年11月18日
[八版]2024年 8月12日

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それがなくなると困り果てるもの

 「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21)

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 宝とは何だろう。その人にとって価値の高いもの、値打ちのあるものというところだろうか。
 あるいは、それがなくなるとその人が非常に困るものともいえるだろう。
 金銭については、私にとって生活の必要のものであり、価値は低くはないがそれほど高くもなく、また、なくなると困るが一番困るものではない。
 もしなくなったとして一番困るとしたら、イエスへの信仰、神との和解である。これほど価値のあるものはなく、長年にわたって私の心棒でありつづけてきたものだ。
 これは天の宝であり、上にイエスも言うように、実際にはなくなることはない。
 私が私の力で天にたくわえたというよりは、天から宝が自分に降ってきたものなので、なくなりようがないのである。

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私が神に赦されたいからあなたを赦しますとのメールが来た

 「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:14-15)

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 まだネットに性善説が残っていた頃には、私も見知らぬクリスチャンたちとメールで交流していた。
 ある人から久しぶりにメールがあったのだが、私はあなたを赦しますという。
 私はこの人に何かした覚えはないのだが、この人は何かのことで私に腹が立ったのだろう。
 それにしても、私はあなたを赦しますというのは、このメールを寄こした人が御父に赦されたいがために書いたことが明らかで、私の何らかのことでなど赦してなんかいないのである。
 全く身に覚えのないことで赦すの赦さないの、しかもそれは私のためなどではないのだから、返信など書かずにほおったことは言うまでもない。

 この人は、おそらくは聖書をマニュアルと思っていたのだと思う。
 書いてあることをそのとおりにやれば天の御父から赦される、そういうマニュアルだ。
 しかしそうではない。聖書は十字架と復活なのである。
 イエスが切り拓いた狭い道に入り込まされ、苦しみの末に十字架に死ぬ。
 そしてイエスを介して御父がすべての罪を赦してくださり復活する。

 私は狭量な人間であるから、何かあるとその人を許せずにいる。
 そのことで心が責められることも多くある。また、私のことを許さない人も数多い。
 だが、私はイエスを介した造り主との和平の中にいる。
 一番大切な、というより唯一大切な赦しをいただき、こんな狭量な人間であっても心満ち足りている。

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[一版]2022年 2月 6日
[二版]2024年 8月10日

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施しの報いは神からのものか、人からのものか

 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」(マタイ6:1-2)

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 ある歌手は、「しない善よりする偽善」と言っている。また、その人の奥さんのこれまた歌手は、かつて東北の大震災があったときにトラック10台を連ねて何でも提供できるようにという趣旨のことを当時言っていた。
 まさに自分の前でラッパを吹いているわけだが、こういう人たちの受ける報いというのは、歌手としてのブランドイメージの向上ということになるのだろうか。
 だが、善と偽善とは似て非なるものであり、トラック10台で駆けつけたとしても、それは果たして被災地の隣人たちを愛しているからなのだろうか。この人たちを想っていてのことだろうか。むしろ、この人たちを踏み台にして自分のブランドイメージを高めているとすれば、偽善というより悪だろう。
 そうではなく、もっぱらその人のために施すときに御父が報いて下さるとイエスは言う。どういうところから出た行動なのか、その心の内を御父はご存じなのである。

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敵のために心から祈るのは

 「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:43-45)

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 イエスは次のようなたとえ話をしている。
 「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。…………。 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタイ13:24-30)

 天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるが、それは「収穫まで、両方とも育つままにして」いるからのようだ。
 もしも、悪い人をもあわれむというので日を照らし慈雨を恵むということなら、なぜさばきの時、収穫の時期があるのだろう。

 ここで、善悪の判断基準は御父にのみあり、私たちに分かることではない。私が麦か毒麦かは措くとして、私の目の前の人が麦か毒麦かは全く分からないのである。
 粗暴そうだから毒麦なのか、私たちには分からない。
 時事ネタになってしまうが、パリオリンピック開会式での、あの醜悪極まりない最後の晩餐をやらかした制作者が毒麦なのか麦なのかも、やはり全く分からない。イエスはこの制作者のために祈れという。うわべでは祈れても、心の底から祈ることはやはり無理なのだ。ここでもイエスの厳格な律法解釈の前に頭を垂れる。

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 旧体制を倒したフランス革命をあらわしたくて、あの最後の晩餐やマリーアントワネットをやったのだろうと推察しますが……。

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目をえぐりだせと言うイエス

 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:27-30)

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 シロアムで目の見えない人(ヨハネ9章)を癒やしたイエスは、私たちには目をえぐりだせと言っている。見えなくなれと言っている。
 イエスの厳格な律法解釈は、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯した」というほどのもので、それで、この律法を守るためには目をえぐりだすほかないと言っている。それほどまでに律法を守り行うことは難しい。
 イエスはこののち、極刑の十字架に死んで3日目に復活するという大いなるわざを行う。
 そのイエスの律法解釈がこんなにも厳しいのは、それを行うことのできない私たちをこの十字架の死に追い込んで、そして新たに生まれるようにするためであり、言い替えると、イエスが切り拓いた救いの道に私たちを追い込むためである。
 だから、目をえぐり出せとイエスが言うのは、シロアムの目の見えない人に見せたあわれみと同じあわれみ、またはそれ以上のものなのである。

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イエスの律法解釈はたいへんに厳しい

 「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ5:21-24)

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 「人を殺してはならない」という十戒の中の戒めを形式上守ることは、多くの人にとって難しいものではない。簡単に守ることができる。
 だが、イエスの律法解釈にはとても厳しいものがある。
 「わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません」、つまり、イエスによれば、相手に対して腹を立てることだけでも人を殺すことになるのである。言い替えると、私たちは日々人を殺しているのだ。

 ここにイエスのたとえ話があるが、これも大変な難しさである。相手に「ばか」と抜かした人が、そもそも「兄弟に恨まれていることをそこで思い出」すだろうか。やられた方はいつまでも覚えているが、やった方は頭の片隅にも残っていないものだ。やった側は、すまし顔で捧げ物をして天の父に感謝の祈りを捧げることだろう。
 さらに、仮に仲直りしようとして仲直りできたとしても、それは表面上のものにすぎないことが多いと思う。日本人は、専ら場の平衡状態を保つために和解を演出することがよくあるが、心の底では「ばか」呼ばわりされたことを決して許してなどいない。

 簡単に守れそうな「人を殺してはならない」という律法も、イエスによればこれほどまでにハードルが高く、実行がおよそ不可能なものとなる。
 律法の遵守はこれほど難しいものであるが、イエスは守り行なさいと言う。
 それは、律法に基づき最高刑である十字架に死なせ、イエスの技に基づきよみがえらせ、そうして本当のいのちを得させるためである。
 大切なことはこのいのちであり、生きる死人の中でほんとうに生きるということである。イエスが来られたのは、もっぱらこのためである。

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イエスは律法を成就するために来られた

 「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」(マタイ5:16-20)

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 イエスは、律法を廃棄するどころか、成就するためにこそ来たのだと言っている。
 また、言うことは言うが行なわないパリサイ人のようにではなく、実際に律法を行う必要があることも、イエスはここで言っている。
 上の「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」とは律法であり、この場合は自分ひとりの行ないだけでは完結せず、周囲の人によい影響を与えることまで課されており、行なうことのきわめて困難な律法といえる。

 そのような律法群を、果たしてすべて守り通せるのだろうか。
 守れるか、といったら、ただの一つも守り通すことができない。
 私たちの肉が、神の律法に逆らうのである。
 しかし律法は成就されるものなのである。それも、罪深い私たちひとりひとりの内に成就される。
 それは、復活のイエスとの出会いによってであり、いくら罪深くともその罪は赦され、どれだけ不義な者であっても義と認められる。
 そのためには、まずこの律法を守り行うのである。律法は義への飢え乾きを起こさせ、イエスの義へと導くからある。イエスの義とは、すなわち十字架と復活である。

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[一版]2015年12月 6日
[四版]2024年 7月20日

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